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先輩から

S20M 松永大先輩が雑誌「ホトトギス」に掲載した中からの投稿です。
今後定期的に投稿を掲載して行きます。どうぞご期待ください。
松永さん

第1弾「伊賀市の芭蕉祭」

松永 朔風(巌)

 平成28年9月2日、三重県伊賀市の芭蕉翁顕彰会から電話があり
 人生の旅は片道翁の忌
の作者である事の確認をされた。この句は伊賀市と同顕彰会の主催で毎年開催されて居る芭蕉祭の献詠俳句として募集され、稲畑汀子先生を希望選者として応募したものである。
 その後数日して顕彰会の植田さんという女性から電話があり、この句が汀子先生の特選一席に入選したので十月の芭蕉祭にご招待したいが出席できるかという問合せであった。
長旅に自信がなく、北信越大会をキャンセルした直後であり即答を避けた。
然し大変名誉な事であり、又と無い機会と思い行く決心をし、夕方植田さんに「有難くお受けします」と回答した。
九月十七日社句会があり、汀子先生に入選の御礼と芭蕉祭にご招待を頂き行くことにしたことをご報告した。汀子先生は「私は行けませんが、どうぞお出でなさい」とお勧め下さった。九月二十日正式招待状と詳細な説明書が届いた。十月十一,十二日の一泊二日の日程であった。早速翌日切符の手配をした。
 当日朝新横浜より新幹線で正午名古屋に到着、説明書に従って名鉄バスセンターに向かった。三階建の巨大なバスセンターに驚き、四〇年程昔現役時代良く目にした駅前が余りにも変わった事に目を見張った。
 三重交通の大型バスで、窓外も平凡な高速道路を約二時間揺られ、指定場所の伊賀上野のホテル前に着いた。歓迎夕食会まで少々時間があったので、有名な「忍者の家」を覗くべくフロントに聞いたら、目の前の森の中と言うので歩き出したらなんと相当な昇り坂、忍者の家も色々な絡繰のある事を知り、帰る時は子連れのくの一とも会えた。卒寿の身には道は辛かったが腹減らしにはなった。
 夕食会は芭蕉が十五夜に弟子達に振る舞ったと言われる「月見の献立」の再現を試みたもので三十程の食材を用いた仲々のご馳走であった。この材料を研究していると言う約二十名のボラティアの女性のお揃いの鮮やかな芭蕉色の割烹着が印象的であった。当時の物に近い食材を選ぶのに苦労したお話もあり楽しかった。六名ほどの卓が5卓、私は若い岡本市長、親切丁寧な西田顕彰会長、青木連句選者、それに俳句文学研究で文部科学大臣賞受賞の伊藤伸江、奥田勲の二氏と共に最上席を頂いた。
 当夜は不幸にして無月であったが、市長の計らいで伊賀城にライトアップがされて観客の賞賛を得た。少々遠景であったが、景観であった。昭和一七年芭蕉翁生誕三〇〇年を記念して建立された「俳聖殿」が会場。平成二二年重要文化財の指定を受けた、外観が芭蕉の姿を彷彿とさせる極めて特徴のある建物で、建立者は川崎克という名士。堂内にはその川崎氏の窯で焼かれた翁の座像がある。昭和二二年時の市長の中井徳次郎氏により第一回芭蕉祭が挙行され、今年は第七〇回の節目の年で祭典も特に盛大に実施された。参加者約五〇〇名、式次第が進み、愈々私達献詠俳句特選招待者一六名が壇上に上り、前もって依頼を受けていた私が代表して謝辞を述べる事になった。まず自己紹介をと俳号の由来を話し、大会開催の祝詞言上、関係者及び選者の方々の労を犒い、感謝の辞を述べ、最後にこの光栄ある祭典にご招待頂いた思い出を「人生の片道の旅」冥土への土産話にしたいと締め括り満場から拍手を頂いた。壇を降りる時には目頭の熱くなるのを感じた。最後に参加者全員が色とりどりの風船を空に放ち盛大な祭典の幕を閉じた。