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《人生の回想》
第56話 椎間板ヘルニア&脊柱管狭窄症を克服して!(前編)
野﨑(旧姓:椿)敬策(S46e)
32歳(1985年8月)の時、Summer Campで北陸の能登島に行く途中、親不知海岸付近で車の中で仮眠した。陽が昇り車外で一服しようと車から出ようとしたとき、腰の痛みに襲われた。何とか車から外へ出たが腰痛から下半身の鈍痛で5分と立っていられなかった。初めての経験で何が起きたかは知る由も無かった。Camp初日でもあり能登島のAuto Camp場に着きテントの設営にあたった。翌日は金沢の兼六園に行ったが、入り口で歩く事もままならず家内と娘は園内散策に行ったが、筆者はベンチにひとり腰掛け帰りを待った。
能登島のテントを片付け奥飛騨の平湯温泉Camp場に3日目到着した。翌朝は雲一つない快晴で乗鞍岳の千畳敷まで車を走らせた。多くの観光客や登山者で駐車場は満車状態だった。ここでも、5分と立っていることが出来ず家内と娘は乗鞍の頂上を目指し、筆者を置いて出かけた。何時間待った事だろう、無事下山してきた。Camp場に戻りその後、高山などの観光にも出かけた。
4泊6日のSummer Campは筆者にとって思わぬ事態となった。家内と娘は筆者を心配しながらもCampを楽しんでくれた。
夏休みも終わり出勤したが、綱島駅から会社までの道のりは遠かった。5分歩いて1分立ち止まりを繰り返し、ようやく会社に辿り着く日々が続いた。ある時、先輩に体の状況を聞かれ、椎間板ヘルニアではないかと云われた。その先輩もかつて椎間板ヘルニアで手術をした経験を持って居た。当時はお腹側からメスを入れ、半年の入院生活(Rehabilitationを含め)だった事を知る。
早速、関東労災病院でRoentgen検査を受けたが異常は認められず、MRI検査を受けた。初めてのMRI検査 磁気共鳴式の診断装置はダン・ダン・ダンという音に最初は恐怖感?を憶えた。検査結果は予想通り椎間板ヘルニアだった。Dr.からは即、手術を奨められた。なお、要因は今までSkiや様々なSportsで体周りについていた筋肉が運動不足で急に衰え、体のBalanceが悪くなって結果、椎間板ヘルニアを引き起こしたと説明された。MRI画像ではヘルニアにより沢山の神経が通る脊柱管が極端に細くなり、神経を圧迫し腰痛はもちろんの事、下半身の鈍痛や痺れを引き起こしている事を証明していた。
東大出の先輩で同級生が国立駒場第二病院のDr、をやっているからSecond Opinionによる受診を奨められた。結果はもちろん最初と同様だった。手術は医療の進歩で背中側からメスを入れるため、入院期間は一ヶ月弱との説明だった。筆者は手術すべきか悩んだ結果、今抱えている多くのシステム開発を優秀な部下たちと行い、一段落した時点でOp.に臨むことを選択した。37歳(1990年10月)まで約5年間 Stickを頼りに全国を飛び回った。 その間、整体や針治療等様々な東洋・西洋の治療を受けた事は云うまでもない。なお、この頃は体がくの字に変形(痛みをCoverする為、自然に体がそうなった)し、歩くのもままならない状況になって居たため、仕事も一段落し手術を決断した。
手術を何処の病院で受けるか悩んだ結果、我が家から一番近い横浜市大病院(福浦)を選び外来受診した。最初から二泊三日の検査入院となった。診断結果は即、Op.だった。当時、横須賀共済病院のDr.が外来診察で横浜市大に出向いていた。このDr.曰く、大学病院は若手医師の実践教育(Intern)の場でモルモットにされる覚悟が必要と云い出した。結果、Dr.の病院に転院しOp.するよう云われた。市大病院での検査結果は全て転院先の病院で活用できるとの事だった。
人生初めての全身麻酔による椎間板ヘルニアOp.がその年の11月に決まった。病室のBedに身を収めていると、Nurseが大きな鏡を抱えて入ってきた。何をするのか問うと、Bedの頭上に鏡をSetすると云う。何のため? Op.後 二週間は仰向け状態でBedに固定されるため、鏡を見ながら食事をするとの事だった。ちなみに、Op.前に鏡を見て食事する練習をしないと後で困ると云われた。
Op.時間はおよそ3時間半だったと後で聞かされた。麻酔から覚めた時、自分の下半身が元に(発症前)戻っていた。背中の傷口の痛みを覗けば全く腰痛や下半身の鈍痛、痺れも無くなっていた。Op.後の説明を仰向けのBedの上で受け、Op.は大成功との事だった。取り除いたヘルニア(軟骨)がガラス瓶に入っていた。右側を主体的に切除し、左側は時間の制約(神経を間違って傷めないため集中できるOp.時間の限度)から多少残したが大丈夫と太鼓判を押された。まだ30代前半の若いDr.だったが自信満々に云っていた。
頭上の鏡を見ながらの食事は左右反対の為、最初は苦労したが徐々になれた。待ち遠しかった二週間が経ち、翌朝、Bedから立ち上がり一人Toiletに行った。後でNurseに見つかり叱られた事を憶えている。Rehabilitationが始まり入院患者との交流も出来た。椎間板ヘルニアが完治せず2回、3回のOp.経験を語る人もいた。筆者の場合は一ヶ月で一度退院したが、左側に違和感を覚え再入院し一カ月半の入院生活で日常復帰した。
その後の経過や65歳で経験した脊柱管狭窄症のOp.は後編で記す。
能登島のテントを片付け奥飛騨の平湯温泉Camp場に3日目到着した。翌朝は雲一つない快晴で乗鞍岳の千畳敷まで車を走らせた。多くの観光客や登山者で駐車場は満車状態だった。ここでも、5分と立っていることが出来ず家内と娘は乗鞍の頂上を目指し、筆者を置いて出かけた。何時間待った事だろう、無事下山してきた。Camp場に戻りその後、高山などの観光にも出かけた。
4泊6日のSummer Campは筆者にとって思わぬ事態となった。家内と娘は筆者を心配しながらもCampを楽しんでくれた。
夏休みも終わり出勤したが、綱島駅から会社までの道のりは遠かった。5分歩いて1分立ち止まりを繰り返し、ようやく会社に辿り着く日々が続いた。ある時、先輩に体の状況を聞かれ、椎間板ヘルニアではないかと云われた。その先輩もかつて椎間板ヘルニアで手術をした経験を持って居た。当時はお腹側からメスを入れ、半年の入院生活(Rehabilitationを含め)だった事を知る。
早速、関東労災病院でRoentgen検査を受けたが異常は認められず、MRI検査を受けた。初めてのMRI検査 磁気共鳴式の診断装置はダン・ダン・ダンという音に最初は恐怖感?を憶えた。検査結果は予想通り椎間板ヘルニアだった。Dr.からは即、手術を奨められた。なお、要因は今までSkiや様々なSportsで体周りについていた筋肉が運動不足で急に衰え、体のBalanceが悪くなって結果、椎間板ヘルニアを引き起こしたと説明された。MRI画像ではヘルニアにより沢山の神経が通る脊柱管が極端に細くなり、神経を圧迫し腰痛はもちろんの事、下半身の鈍痛や痺れを引き起こしている事を証明していた。
東大出の先輩で同級生が国立駒場第二病院のDr、をやっているからSecond Opinionによる受診を奨められた。結果はもちろん最初と同様だった。手術は医療の進歩で背中側からメスを入れるため、入院期間は一ヶ月弱との説明だった。筆者は手術すべきか悩んだ結果、今抱えている多くのシステム開発を優秀な部下たちと行い、一段落した時点でOp.に臨むことを選択した。37歳(1990年10月)まで約5年間 Stickを頼りに全国を飛び回った。 その間、整体や針治療等様々な東洋・西洋の治療を受けた事は云うまでもない。なお、この頃は体がくの字に変形(痛みをCoverする為、自然に体がそうなった)し、歩くのもままならない状況になって居たため、仕事も一段落し手術を決断した。
手術を何処の病院で受けるか悩んだ結果、我が家から一番近い横浜市大病院(福浦)を選び外来受診した。最初から二泊三日の検査入院となった。診断結果は即、Op.だった。当時、横須賀共済病院のDr.が外来診察で横浜市大に出向いていた。このDr.曰く、大学病院は若手医師の実践教育(Intern)の場でモルモットにされる覚悟が必要と云い出した。結果、Dr.の病院に転院しOp.するよう云われた。市大病院での検査結果は全て転院先の病院で活用できるとの事だった。
人生初めての全身麻酔による椎間板ヘルニアOp.がその年の11月に決まった。病室のBedに身を収めていると、Nurseが大きな鏡を抱えて入ってきた。何をするのか問うと、Bedの頭上に鏡をSetすると云う。何のため? Op.後 二週間は仰向け状態でBedに固定されるため、鏡を見ながら食事をするとの事だった。ちなみに、Op.前に鏡を見て食事する練習をしないと後で困ると云われた。
Op.時間はおよそ3時間半だったと後で聞かされた。麻酔から覚めた時、自分の下半身が元に(発症前)戻っていた。背中の傷口の痛みを覗けば全く腰痛や下半身の鈍痛、痺れも無くなっていた。Op.後の説明を仰向けのBedの上で受け、Op.は大成功との事だった。取り除いたヘルニア(軟骨)がガラス瓶に入っていた。右側を主体的に切除し、左側は時間の制約(神経を間違って傷めないため集中できるOp.時間の限度)から多少残したが大丈夫と太鼓判を押された。まだ30代前半の若いDr.だったが自信満々に云っていた。
頭上の鏡を見ながらの食事は左右反対の為、最初は苦労したが徐々になれた。待ち遠しかった二週間が経ち、翌朝、Bedから立ち上がり一人Toiletに行った。後でNurseに見つかり叱られた事を憶えている。Rehabilitationが始まり入院患者との交流も出来た。椎間板ヘルニアが完治せず2回、3回のOp.経験を語る人もいた。筆者の場合は一ヶ月で一度退院したが、左側に違和感を覚え再入院し一カ月半の入院生活で日常復帰した。
その後の経過や65歳で経験した脊柱管狭窄症のOp.は後編で記す。