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《人生の回想》

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第17話 我が愛車遍歴
野﨑(旧姓:椿)敬策(S46e)
 車の運転免許は18歳から取得可能となる。高校3年生になるとちらほらと運転免許を取ったクラスメートがいた。筆者は3月下旬の誕生日だった事から免許取得は当然叶わなかった。免許を取ったのは結婚後、娘が生まれ家内に勧められた事がきっかけだった。
 1979年26歳の時に運転免許を取る事にした。多忙な会社生活をしながら自動車教習所に通うのは無理が有った。当時、短期合宿による免許取得が流行っていた。筆者はこのシステムを活用する事にした。夏休みが比較的長く有給休暇を使えば最短18日取得コースで行けると思い休暇申請をした。上司からはこんな長期休暇で何をするのかと問われた。とっさに交通関連の社会システムを仕事としている身で、自動車の運転が出来無いのでは話にならない旨訴えた。結果、申請が叶った。我ながら上手い理由を言ったものだと思った瞬間だった。
 合宿での取得場所は埼玉の本庄市だった。来ていた人達は大学生や学校の先生が多く、一般社会人は殆ど居なかった。宿泊所は木賃宿のような所だったが我慢した。食事は付いてないので近くの食堂等を利用した。偶然にも筆者と同じ金沢文庫から来ていた中学教師と知合い、一緒に食事などをした。教習が始まり順調に段階が進んだ。全てステップをクリアし一時間も追加講習は無かった。仮免も取得し最後の実技試験に臨んだ。見事に最短日数で合格した。ただ、試験日程の関係で一日空きが出来、19日間を費やした。会社に申請した休みが一日オーバーする事となり、上司に連絡すると帰ってきたら机が無いなど脅された。何人かが最短で合宿所を去ったが、中には女性の教師で45日間も合宿している人が居た。その後、二俣川の運転免許試験センターで学科試験を受け初めての免許証を手にした。
 早速、車を購入する事とした。義理の親父がマツダのルーチェに乗っていた事から同じ販売会社を進められ、結果、RX-7(12Aロータリー)を購入した。シルバーメタリックで当時流行りのサンルーフを付けた。当時の写真では車両全体画像が見つからずネット画像をアップした。スタイリングは左の写真(Yellow)と一緒だが車体色は右の写真(Silver Metallic)だった。
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我が家の前のRX-7

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娘とRX-7

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Mazda RX-7(12A Rotary)サンルーフ

 ロータリーエンジン特有の滑らかな回転で乗心地は良かった。4人乗りだったが2×2の表記通り、後部座席は大人は辛く子供用だった。また、冬の寒い朝はエンジンが温まるまで交差点の赤で停止するとエンジンが止まる現象に悩まされた。開発途上のエンジンでまだ完成度が低かったのが原因だった。また、燃費もあまり良くなかったが走りは抜群だった。スピードメーターは当然180km/hなのである時、関越自動車道の花園付近の直線で最高速度までトライした。見事にメーターを振り切った。この経験は一生に一度だけだった。馬鹿な事をしたが捕まらず事故も起さなかった事を記す。
 ある時、義理の両親を載せてドライブをしたが不評だった。何しろ後部座席が狭くまた乗り降りも厄介だった。娘が小学生になった頃、Auto Campを始めるにはRX-7では無理だった。次の車探しをした結果、思い切ってクラウンを購入する事にした。ただ、当時の給料では高値の花であった為、中古車を探した。
 クラウン2ドアHT RSランドウトップ:2,800㏄ SOHCを購入した。RX-7もそれなりの下取価格だった事を記す。
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我が家の前でのクラウン

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Camp場にて

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雨の中白川郷に向かう

 このクラウンでFamily Auto Campに行った。トランクが広くCamp用具一式が楽に入った。ただ、クラウンでCamp場に来た人は皆無だった。RX-7では無かった快適な居室空間に満足した。走りも優れスタイリッシュな車に結構人目を引いた。今思うとこの車を一生ものにすれば良かったと後悔している。
 暫くCampからおさらばを決めた34歳の頃、何故か外車に憧れた。ベンツやBMW等がある中でJaguarが眼に留まった。コンパーチブル(オープン)に憧れたがツーシータしかなく、他のモデルを探した。モーター雑誌で“さらばダブルシックス”のワードが眼に留まった。一目で惚れてしまったJaguarの「デイムラー・ダブルシックス」だった。
 ある車好きの知合いに話したら中古車を探してくれた。価格は結構したがクラウンの次はダブルシックスとの思いで購入した。V型12気筒SOHCエンジンで排気量は5,300㏄だった。エンジンルームを開けると6気筒のシリンダーがV字型に左右に並んでいた。片一方が止まってももう一方だけで走れる構造だった。V12はシルクのような滑らかな走りで静粛さにつつまれ、アクセルペダルに足を載せているだけでスイスイ走った。
 速度メーターも230km/hまであり一度160km/hまで加速したが爽快に走ってくれた。ただ、さすがに燃費は悪く街中で3.5km/ℓ程度だった。45ℓの燃料タンクが左右二つ有り、給油口も同じく左右に二つあった。ユニークだったのは走る時、左右の燃料インジケーターを見ながらバランスを考えマニュアルで使用する燃料タンクを切替えた事だった。この頃の外車は電気系統が弱くワイパーやパワーウィンドウが動かないトラブルも有った。一番困ったのは夏場の暑さでエアコンが今一効きが悪く、最終的にはオーバーヒートを箱根で起こした時だった。一晩車を置いて帰った事を記憶している。エンジンを切っても暫く冷却のためモーターファンが廻っていた。
 クリスマスに那須に旅行した時、ホワイトクリスマスとなりチェーンが必要となった。宿の方にチェーンを手配してもらい装着し走りだしたが、後輪の二輪だけでは走れなかった。なにしろ車重が1.6tほどあり、エンジンの重さで勝手に滑り出す始末だった。途中でチェーンを追加購入し4輪装着でやっと雪道を走れた。
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我が家の前のデイムラー・ダブルシックス

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雪の那須高原にて

 この車は当然のことながら年間維持費と車検代がバカにならなかった。税金は81,000円だったと記憶する。車検時は整備費が高く最低でも30万円、多い時は60万円ほどになった。
 ダブルシックスで数年間エレガントなドライブを楽しんだが、またAuto Campが恋しくなりJaguarから別の車を考えた。キャンピングカーが欲しかったが実用性に乏しく、家族からも反対され断念した。同居の義理の両親も高齢となり乗降りが容易な車が好いと言われた。トヨタからナディアが発売された。この車はシャーシを同一にする姉妹車:イプサムとガイアもあり、この二台は三列シート仕様だった。唯一、ナディアは二列シートの5人乗りで車室内が広かった。特に後部座席はトヨタの最高級車:センチュリーと変わらない広さだった。スタイリングも良く次の車はナディアに決めた。1999年(平成11年)だった。
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岩木山いこいの村キャンプに向かう

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朝のCamp場にて

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カーキャリアを付けて実りの岩木山へ

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奥飛騨平湯温泉にて

 ナディアは運転しやすく国産車の良さをあらためて認識した。この初代ナディアは15年間で18万kmほど乗った。2014年2月にエアコンが故障し取替が必要と言われ、修理費も60万円超えの見積もりだった。既にナディアは生産中止となり新たなナディアの購入は無理だった。ナディアは57歳から植木職を始めた事も有り、三脚や脚立等の植木道具一式を搭載し仕事車に変わった。日常、家内が主として乗る事になるトヨタ:パッソ(ナディアの次に買ったコンパクトリッターcar)を2006年56歳の時に購入した。小回りがきき街中を走るには手軽な車だった。
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雪上のパッソ

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熱海城をバックにパッソで

 この車で近所を走っていた時、偶然にも中古車センターにナディアが見えた。早速寄ってみるとまだ2万2千kmしか走っていない平成12年式ナディアだった。ワンオーナーcarで程度も申し分なかった。ナディアに惚れ込んでいた筆者は即座に車検は切れていたが車検を取って32万円で購入した。思わぬ掘り出し物だった。
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二代目ナディア

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雪道でのナディア

 この二代目ナディアも既に8万kmを超え発売から22年が経過している。部品供給はとっくに終了しているが運転出来なくなるまでナディアに乗りたいと思っている。 一代目パッソは10年間で8万kmほど乗った後、2017年に二代目パッソに交換した。今も二代目パッソは大活躍である。このパッソも既に8万kmを超えた。
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我が家の前の二代目パッソ

 26歳で運転免許を取って既に43年が経過する。この間にスポーツカー(RX-7)1台、国産高級車(クラウン2HT RSランドウトップ)1台、外車(デイムラー・ダブルシックス)1台、国産大衆車4台(ナディア・パッソ)を乗り継いできた。ドライブ好きな筆者は中四国1周、東北1周、関東甲信越等をドライブしてきた。最近の年間走行距離はナディアとパッソで3万kmを超えている。カーナビの進歩とドライブレコーダー(2000年代前半に筆者がITSシンポジウムで提唱した)の普及、さらにはASVやEVで車社会も安全で快適なカーライフが実現できている。今年は九州一周のドライブ旅を計画している。今後、何歳まで運転可能かは定かでないが可能な限りカーライフを楽しみたい。

 第18話では2010年代後半での講演などを回想する。