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《人生の回想》

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第16話 植木剪定・家庭菜園で第三の人生を楽しむ
野﨑(旧姓:椿)敬策(S46e)
 2009年 56歳の時、近所のラーメン店で美味の「タンメン」を食べていると松下時代の大先輩が声をかけてきた。9歳年上であったが先輩は定年まで勤めあげた事を知る。ただ筆者の方が一年先に松下を卒業していた。先輩は退職後、植木職の専門学校に行って植木職人としての第二の人生を送っていた。個人業と横浜市シルバー人材センターで働いていた。
 その時、手伝ってみないかと誘われた。後日、何もわからないまま軽トラに同乗しある家について行った。植木の腰道具は先輩から借用した。ぼうぼうになった庭木が剪定で見事に姿を変えていった。筆者は剪定の仕方を教えてもらいながら少しずつ上達したようである。最後にゴミの片付けが待っていた。枝類は束ねて軽トラに積んだ。葉物類は袋詰めだった。剪定作業は楽しいが片付けは大変だった。アルバイト料は当初5千円だった。時々声が掛かった。
 翌年、本格的にやってみないかと言われ、植木職人に必要な道具類を買い揃えた。シルバーセンターへの登録もした。シルバーセンターで6人の班に所属した。当然、親方は声をかけてくれた先輩だった。メンバーは皆60歳を超えていたが、筆者はまだ還暦に届いていなかった。皆が若いのに何故?との顔をしていた。第二の人生の事は特に話していなかった。
 通常センターでは最低の日当が8千円だったが、先輩の親方からは6千5百円と言われた。ちなみに親方は1万1千円から1万2千円だった。親方曰く仕事の質で徐々に上げていくとの事だった。人一倍真面目な親方だった。庭木の数や規模により都度、メンバーの数は2人から6人へと変化した。お客さんへの見積もりからスケジューリング、センターへの支払い請求などは全て親方の仕事だった。当然、お客さんの庭の下見もあった。
 ある時、お客さんの要望に反し剪定作業を行い親方は出入り禁止になった。プロの目からお客さんの要望を否定したのだった。結果、シルバーセンターから親方は離れ班には他の親方が就いた。その親方は先輩を育てた親方で舞戻ったかっこうだった。此の親方の下で3年目には日当1万円(親方以外では最高額)にしてくれた。剪定では松の剪定が技術的には難しかったが、親方と二人三脚で松主体の家の仕事をした。班のメンバー7人の中で松の剪定を許されたのは親方と筆者の二人だけだった。
 仕事も覚えシルバーセンター以外に近所の造園業の門を叩いた。幸いにもアルバイトが受け容れられ日当1万円で仕事が始まった。シルバーでは木の高さや脚立の段数等いろいろと安全上の制約が有り、納得のいく庭木剪定はチョット難しい面があったが、造園業者は公共の公園や街路樹、マンション、工場敷地内、神社仏閣等が主だった。もちろん一般家庭も対象だった。
 4年目でシルバーでは親方を任され6人の手元を持った。日当は1万千円でその後、1万2千円(シルバーでは最高額)となった。依頼も増加し年間120件・延280日位の案件をこなし、磯子事務所管内ではトップの売上と案件の実績を残した。
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剪定前の庭木

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剪定後の庭木

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剪定前の庭木

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剪定後の庭木

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剪定前の庭木

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剪定後の庭木

 上の写真の家は案件の中では一番のお庭で最大5人・延25人工の規模だった。高木剪定は主に筆者が担当し、松以外の低木や刈込等は手元に任せた。このお宅では以前は造園業者に依頼していたとの事だったが、筆者らが請け負った事で料金も3分の1になり大変喜ばれた。出来具合も丁寧で綺麗と褒められた。毎年依頼が来た。また、剪定ゴミも大量でありゴミ回収業者と契約しパッカー車で収集処理した。
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剪定前

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剪定後

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剪定前

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剪定後の結果に満足する手元(10歳年上)

 造園業者にも5社ほどバイトに行き、最後の2年間はシルバーを離れ造園業者に専念した。日当も1万5千円に増加した。銀杏をはじめヒマラヤスギ・メタセコイヤ等の剪定も行った。また、街路樹や公園の植栽も経験した。
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マンション:銀杏剪定前

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剪定後

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ヒマラヤスギの剪定前

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剪定後

 シルバーでは出来ない花壇や庭造りも経験した。横浜市の花壇展では賞を頂いた。三浦海岸のある豪邸では玄関先のオブジェを創作した庭造りに関わった。特にオブジェ創作では社長から指名され社長と二人三脚で行った。
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山下公園での花壇展作品

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オブジェ創作風景(枕木や焼木の組木とコンクリ打ち)

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完成したオブジェをメインとしたお庭

 学会活動などをやりながら自然に接した植木職の仕事は人生に深みを与えてくれた。
 家庭菜園は義理の親父が長年やっていた。筆者が56歳になった4月に他界した。畑は我が家から車で15分ほどの所で、八景島シーパラダイスや海の公園が眼下に広がる高台のFarmだった。10坪ほどの広さだったが年間使用料を払ったばかりで葬儀が終わって5月から畑を引き継いだ。Farm開設当初からやっていて区画の直ぐ側に水場も有った。周りの親父を知る方々に畑仕事を教わり、見よう見まねで始めた。また、周辺には農家の畑も有り眼の前のハウスのご主人からも手解きを受けた。
 無農薬で有機栽培の自家野菜はとっても美味しかった。年間を通じ様々な野菜を栽培できた。
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玉ねぎ栽培

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夏野菜栽培

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リーフレタスなどの栽培

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トウモロコシの栽培

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収穫した野菜の数々

 トウモロコシは畑にハクビシンが出現し、収穫前の美味しい所を食べられてしまった。ネットを張っていても下から潜ったようだ。夏場の水やりは朝晩の二回で朝は6時前、夕方は17時過ぎに畑に通った。植木仕事が忙しくなり畑に手が回らなく、泣く泣く家庭菜園を手放した。家族からは継続してとの要望だったが。63歳の時だった。
 65歳の時、脊椎狭窄症となり腰の二度目の手術を受けた。これにより畑仕事や植木職にも幕を閉じた。学会活動や大学に関わりながら植木職と畑仕事、ともに人生に喜びを与えてくれた。ちなみに植木職は丁度10年、畑は8年間の経験だった。

 第17話では26歳で免許を取った後の愛車遍歴を回想する。