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《人生の回想》

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第8話 ITS・VICS/ETC開発・出向そして第二の人生へ
野﨑(旧姓:椿)敬策(S46e)
ITS:Intelligent Transport Systems(高度交通システム)
VICS:Vehicle Information Communication System(道路交通情報通信システム)
ETC:Electronic Toll Collection(自動料金収受システム)
ITS:Intelligent Transport Systems
  (高度交通システム)
VICS:Vehicle Information Communication
   System(道路交通情報通信システム)
ETC:Electronic Toll Collection
  (自動料金収受システム)
 技師になった翌年、同期入社の一人は営業職に異動した。また、新潟県警を当初担当した同期も法人関連の技術部に転籍した。交通関連事業が拡大する中で第一技術部が分割し、第一技術部が警察関連、第三技術部が建設省関連となった。筆者は当然、第三技術部所属となった。ちなみに、第二技術部は当初と同じ法人関連を担当した。
 コンピュータも世界基準のUNIX化でPFUはPFU Aシリーズを開発し、システム開発の主流がUNIXマシンに変遷した。言語はC言語で筆者は直接プログラミングをすることは無くなった。第二技術部では筆者を迎え入れた部長(当時は主任)がパソコンの開発に携わっていた。松下では自社ブランド:マイブレーン、IBMにはOEM供給でIBM5550を開発販売した。言語はBASICが使われていた。この技術部では運輸関連のシステムも担当し、一時、某会社の物流管理システムの提案活動に部長の要請で手伝った。
 建設省の道路情報システムは北海道から岡山、そして高知等へと拡大し、北海道は札幌大出身の部下に担当してもらった。国内初の流雪溝監視制御システムや石北峠道路情報システム等を旭川に導入した。筆者の転勤当初、札幌の中山峠道路情報システムを北海道出身の大卒同期の方と開発納入して以来のシステム納入だった。
 Aシリーズへの交通管制システム更新は新潟県警を担当した部下がその後第一技術部で技師となり担当した。
 1989年ホンダが世界初のカーナビゲーションを開発し車の情報化が加速した。このカーナビに動的交通情報を提供するシステムの研究に携わった。路車間通信方式やインフラシステムと車の融合で警察庁・建設省・郵政省の三省庁が関与した。官民の委員会が発足し、メーカーでは松下・住友電工・オムロン・日立・NEC・三菱が当初関わった。警察庁は無線を使わない光通信(赤外線通信)、建設省は準マイクロ波(2.5Ghz帯)無線通信、郵政省は放送で開発が進んでいたFM多重通信を提唱した。カーナビ製作メーカーや車メーカーからは警察と建設の通信方式統一を要望したが両省庁は双方譲らなかった。車載側のコスト負担が大きくなる要因となった。FM多重はそもそもカーラジオの延長で受け入れられた。日本ならではの縦割り行政の課題が提起された瞬間だった。筆者はNECと共に郵政省のFM多重通信によるVICS仕様化に関与した。郵政省の窓口は移動体通信推進室で主に携帯電話の普及促進や次世代携帯電話の企画推進を担当していた。放送局は民放を含め多々あったが当然のごとくNHKに絞られた。渋谷神南のNHK:放送技術部との会合が続いた。住電・オムロンは警察庁、日立・三菱は建設省だったと記憶する。日立とは道路情報システムで協力関係となり、また、三菱・日電とはナンバープレート読取、さらに日電とは高速道路交通管制そしてオムロンとは阪神高速で付き合いが有った。警視庁の交通管制で住電とも接触はあったが、VICSを通じ6社と共同開発の仕様化にタッチした事は貴重な経験だった。
 話は脱線するが、NHKの帰り道、渋谷道元坂界隈のお店に入ると女優:南田洋子の一行と一緒になった。他にも梓みちよや中学生日記の出演者とも顔を合わせた事がある。NHK効果はprivateでも貴重だった。
 下図は開発したVICSのシステム概念図である。光ビーコンが警察交通管制、電波ビーコンが高速道路交通管制、FM多重は広域の道路情報(一般・高速)を受け持ち3メディアと呼んだ。
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 システムではVICSセンターを受注し開発責任者として1994年世界初の快挙を成し遂げた。FM多重の中央は日電が担当した。警察システムはUTMS(Universal Traffic Management Systems:次世代交通管理システム)構想の中で各県警システム担当メーカーが実現した。
 ITSは1993年に日米欧の三極で立ち上げた初めての世界的projectで毎年国際会議が開催された。第1回はフランスのパリで開催され、第2回が日本の横浜だった。この横浜会議に合わせてVICSを間に合わせたのである。ITS projectにより今まで関わってこなかったメーカーの数十社が参画してきた。1994年4月に日比谷交差点の近くのビル内にVICSセンターを立ち上げた後、当時の事業部長(東京理科大物理学科卒の営業畑)に2年間の出向を命じられた。間もなく課長職の時期なのに。当時、出向は悪いイメージが社内に有った。
 出向先は日本道路公団の関連会社だった。交通インフラでこれまで以上の事業拡大には本家本元に立ち入って官の立場で将来構想を企画し、それを松下の事業に反映させよとの命題だった。期限付き出向だった事から承諾した。既にこの関連会社(その後、猪瀬氏らによりファミリー企業として叩かれ日本道路公団は民営化の一途をたどった)には各社からの出向者が十数名居た。この会社は公団のコンサルタント会社で高速道路の新規路線や路線拡張に対するシステム・設備の仕様化を行っていた。筆者はここで九州自動車道の加久藤トンネル(5,600mで最後の難所:熊本人吉から宮崎えびの間)の換気制御、佐賀から長崎へのトンネル換気制御評価と改良、SAの太陽光発電基本設計、東北道の設備の遠方監視制御の更新システム仕様化、上信越道のトンネル監視制御(ITV活用)仕様化、山陽道のSA/PA情報ターミナル仕様化などに関わった。公団関係者とは北上温泉や福岡博多、人吉、松本、小諸、広島等美味しい思いも多々させて頂いた。
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上信越高速道のトンネル画像処理設計視察:前段左端が筆者(松本城をバックに)

上信越高速道のトンネル画像処理設計視察
前段左端が筆者(松本城をバックに)

 1995年3月20日地下鉄サリン事件が起きた。筆者は東銀座で日比谷線に乗り換え八丁堀まで通っていた。この日は何故か都営地下鉄で宝町まで行き、歩いて八丁堀の会社に行った。Officeの8階窓から悲惨な光景が見えてきた。道路に地下鉄から担ぎ出されたサリン被害者が横たわっていた。ヘリコプターの音や救急車のサイレンで仕事どころでは無かった。TVの報道でオウムの仕業と知った。もしこの日も同じ通勤経路だったら、筆者もこのサリンの犠牲者になっていたかもと思うと身が震えた。また同年1月17日には阪神淡路大震災が起こっていた。新幹線で広島に行く予定がキャンセルとなった。この年は一生涯忘れる事の出来ない事となった。
 ある時、新霞が関ビルの公団本社の一室で高速道路の電波ビーコン(VICS)システムの仕様化が内々でメーカー5社と進んでいたことを知る。何故か松下はメンバーに入っていなかった。この話を即事業部長にすると後日松下もメンバーに加わった。何故か2年間の出向予定が1年1カ月に縮まり5月のGW明け会社に復帰する事となった。課長職の椅子が待っていた。
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副参事(課長職)昇格記念写真(中段右から四番目が筆者)

 第三技術部第1設計室長として部下を30名程預かった。事業部技術部門では初めての高卒課長職として管理職に就いた。社内ではチョット遅い42歳での昇進だった事を記す。松下に復帰後、公団VICSのセンターシステム(名古屋管理局・新潟管理局)を初受注し開発納入した。この時政府の要請で貿易摩擦解消策から海外製コンピュータの活用が条件だった。HP製(ヒューレットパッカード)のマシンを選択した。初めてのHPを活用したシステムを設計から納入までは公団のVICS仕様化メンバーに加わった数学科出身の部下が担当した。翌年のGWは休みなしで最終の現地テストを行ってくれ、筆者も名古屋と新潟を往復した。また、名古屋高速の将来交通管制の委員会で行った更新システムを受注し北海道の道路情報システムに関わった部下が主担当で開発納入した。一つのシステムで32億円の規模は筆者として初めての経験だった。
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名古屋高速黒川新交通管制室

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情報提供系の納入System

 変わった所では東京消防庁の消防訓練システムの話が入ってきた。営業は受注したくても引き受ける技術部署が無いとの事だった。もともと新しい事に関わる事が好きだった筆者は快く引き受けた。建物内の火災発生・検知・避難誘導・消火と一連の動作を主Simulationする機能でこれも国内初との事だった。火元には圧力センサが有り、消防士が火元めがけて放水すると消火検知する等の愉快な仕組みの宝庫だった。一設計室として年間50億円以上のシステム納入は社内でも多い方だった。この頃、技術者一人一億円の仕事をとの命題が有った中での実績だった。
 建設省から国内初のETCシステム開発の共同研究公募が進んでいた。世界レベルでは1989年にノルウェーが初めて料金自動収受システムを開発した。背景には極寒の中で窓を開け料金を払う事の困難さ(寒さ)解決策だった事を知る。公募は筆者が出向中の出来事であった。会社に復帰した翌年3月に結果が出た。この公募への主担当は阪神高速で委員会も一緒に参画したナンバープレート読取開発の彼だった。21社応募で13社が合格した事を知る。その中に残念ながら松下の名前は無かった。公団のVICS納入、名古屋高速新交通管制納入後の1996年5月末に常務の役員室(筆者に出向を命じたかつての事業部長)に呼ばれた。室長二年目であった。共同研究は受注プロセスとは関係無いので、松下独自でETC開発を行ってくれとの要請だった。一度官から駄目出しされたのに今更と内心思った。ただ、筆者としてもETCを開発納入出来ないことは悔しさで一杯だった。引き受けるにあたって幾つかの条件を出した。全社の総合力が必要な多くの技術要素を含むため、課長職責では何も出来ない事を話し、事業部長以上の権限が必要。また、世界標準化(ISO TC204/WG5)を視野に進んでいる事からバイリンガルのsecretaryが必要(筆者は英語が苦手な為)。腹心含め10人程度は自ら担当者を決める。共同研究各社は建設省の筑波テストコース、未供用の高速道路料金所がフィールドテストで使えるが我が社は独自のテストフィールドが必要等だった。結果、事業部長室の隣に個室が用意され、三人のsecretaryがついた。個室の名称はETC特別プロジェクト室となった。ETC開発用のテストコース建設も了承された。
 1996年6月に第三技術部のフロアからETC特別プロジェクト室に席を移した。約10名のメンバーは各技術部から人選した。所属課長から承諾を得る事はさほど困難では無かった。最初の仕事は開発計画書の企画作成だった。開発費は30億円ほど当初計上した。松下通信は当時、携帯電話の販売が好調で世界シェアも2割に近づいていた。この様な経営状況下での開発は予算面で追い風だった。ISO TC/204 WG5の国内委員会が建設省の外郭団体で進んでいた。ちなみにISO TC/204日本代表は慶応大学:川島教授が座長を務めていた(首都高速の委員会で一緒だった)。WG5国内会議の議事録は30回ほどの分量が既にあった。この委員会のメンバーに加わった。この時、共同研究に合格しなかった松下が何でこの委員会に出席しているのかとの目が各社から向けられた。川島教授:座長や公団関連会社への出向で公団上層部との人脈が有った事で委員会参画が可能となった事を記す。公団・各社(ETC公募に合格した会社)から20名程集まっていた。委員長は料金収受設備納入の国内トップ企業:三菱重工が担当(阪神高速の営業管理システム納入や委員会で同席した方)していた。国際委員は4名で委員長、公団、沖電気、日立が担当していた。システム仕様化で既に後れを取っていたことを知った。ただ、わが国で国際委員会が開催された時は特別に4名の国際委員と同席参加させてもらった。欧米の委員からは何故DSRCでアクティブ通信方式(後述するキーテクノロジー)を採用するのか。これは海外からの参入阻止を狙ったものでは等意見が出た。海外はほぼパッシブ方式であったため。この結果、海外メーカーは国内ETCの受注は無かったが半面、海外へのETC輸出もコスト高で不可能だった。この頃、筆者は中国・アジアへのETC輸出を考えていたのだが果たせなかった。唯一、三菱重工はシンガポール等に輸出した。
 ETCのキーテクノロジーはDSRC(Dedicated Short Range Communication:狭域路車間通信 マイクロ波:5.8Ghz帯)のアクティブ(双方向)通信方式(ヨーロッパでは パッシブ(片方向)通信方式が主流)だった。ちなみに松下の応募時の提案した通信方式はパッシブ通信(システムがアクティブ通信に比べコスト安となる)だった。この無線通信開発を社内で行うため電波事業部に相談し、松下技研(昔の松下電器:東京研究所)にマイクロ波の専門家が居る事を知る。此の開発に公募で失敗したナンバープレート読取開発者の彼に担当してもらった。3m×4mの通信領域で双方向無線通信を可能とする32ビット素子のアレイアンテナ開発が始まっていた。最終的には64ビット素子のアレイアンテナで実現したと記憶する。
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DSRC概念図

 DSRCアンテナは松下以外に沖電気・日電等が開発したがその他のメーカーはETC受注時、他社からのOEM供給を受け納入した。松下も何社かにアンテナの提供をした。
 暗号化方式はまだ共同研究でも検討中だった。中央研究所で楕円符号暗号化方式を研究している事を知り、この研究者(一人は女性:その後、北陸先端大に転身)の協力を得た。セキュリティ技術のオーソリティ東大:今井教授の協力も得たが、世界標準方式でなく残念ながら楕円符号化暗号方式は採用されなかった。VICS開発ではカーナビ車載端末の事業部と中央システムを担当する筆者所属の事業部は共同推進していなかった。その反省から、ETCではETC車載器もこのプロジェクトで担当する事を決定した。下の図は当時のITS/ETC等の松下グループ全社の研究開発体制であった。
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 研究開発に関わった技術者はETC特別プロジェクト室のメンバー以外に全社で50名を超えていた。
 開発二年目の1997年に入りテストコースの建設でトヨタの裾野にあるテストコースを密かに見学させて頂き、コース設計の構想を練った。建設地は松下グループ内の空き地または工場内でとの指示が有り、松下電器本社の施設部に相談した。松下通信に転勤してから既に20年以上が経ち懐かしい門真の本社だった。その後、向かいにある中央研究所で新入社員当時の指導員が常務になっていて挨拶に行った。何カ所かの候補地を現地調査し、結果、松下通信の岩手県にある花巻工場内に決定した。システムのフィールドテストで夏の暑さや冬の寒さといった気象条件にマッチしていた。ただ、グランドを潰すことで組合から反対が出たがコース内にテニスコートを造る事で決着した。また、将来のコース増設も隣の田んぼを購入すれば拡張可能だった。コースの土木設計はかつて関わった鹿島建設系の技術コンサルタントにお願いした。
 社内では重要案件審議会議が有り、この場でテストコース建設の了承が必要だった。社長以下役員が出席する会議で建設マスタープランを提示説明し難なく了承を得た。建設会社の選定は松下通信の施設部に委ねた。筆者は鹿島建設を考えていたが、松下通信の多くの工場建設に関わっている竹中工務店に決定した。竹中土木(竹中工務店の道路系子会社)で建設が始まった。完成は同年8月を予定した。
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工事現場を監督する筆者

 コース内には料金所boothが必要となり、高速道路の料金所納入に関わっている東急車両に製作をお願いした。料金所形態は都市間高速と都市内高速で異なり、鉄道レールを活用した移動式料金所boothを製作した。下の図は完成した花巻工場内のテストコース全景と様々な設置機器である。
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 1997年8月にテストコースおよび実験棟などの竣工式を実施した。社長の予定が合わず経理担当専務にテープカットをお願いした。その後、社長は9月9日マスコミ発表で花巻テストコースに東京からバス2台でマスコミ各社を招待した。花巻温泉でReceptionも開催し、技術担当専務がマスコミ説明を行った。ETCテストカーで社長が助手席に座り筆者が運転していた時、料金所を80km/hで走ろと命じられた。しかし、料金所手前で無理しなくていいとビビった社長だった。実際には70km/hで通過し路車間通信は問題なかった。地方TV局はもとより全国版でも夕方のTV newsに流れた。筆者が写っている姿が夕方のフジTVスーパーNewsで放映されたことを後で知った。
 社内ビデオNewsの取材が有り、PANA ビデオNews で連日社内に流された。筆者がテストコース内を歩きながらITS開発について語る姿が写っている。
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竣工式:テープカット
(左:花巻市長 中央:土井専務 右:竹中工務店 常務)

 システム開発も進み、郵政省はこのテストコースで路車間無線通信のデータ検証に活用した。下にETC概念図を示す。
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 NHKでは朝のNews「おはよう日本」で衛星中継車を持ち込み、生中継でETC開発について取り上げてくれた。筆者が解説で放送されたが、リハーサル無しのぶっつけ本番だった。
 その後、日を改めてTV局や雑誌社から個別取材が続いた。当時のホリデーオート誌はトヨタの新カーナビ搭載車を持ち込み取材してくれた。下は雑誌記事の一例である。
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 開発も順調に進んでいたが、電波の反射対策に電波吸収体の開発が必要となった。また、料金所通過最大速度80km/h(本線上は最大速度180km/hの無線通信仕様)に対応する遮断器(0.5秒で開閉必要)は世の中に存在しなく自社開発となった。筆者は海外視察等を通じ、遮断器不要の不正通行防止監視カメラを採用したシステムを提言したが受け入れられなかった。後に警察からの指示で料金所通過速度を20km/hに制限された。また、遮断器が有っても強行突破する車の撮影は必要な為、不正通行防止監視カメラが設置された。無駄の多い日本流のシステム開発に落胆させられた。
 1998年度末にテストコースでのプロトタイプの実用化試験が終了し、実納入機器・システムの開発が始まった。ここで、筆者の出番は終了しシステム製作部門へバトンタッチした。社内各地のショールームではITSプロモーションビデオが流され、ETC車載器の普及をアピールしていた。ショールームの女性たちには本人が来たとよく言われた。ITS-WC(世界会議)のイベント会場でもPanasonicブースにビデオが流された。
 筆者はVICS・ETCセンターシステム開発者と共にITS-WCには1997年Berlinと翌年のSeoulに参加した。世界各国から4,000人を超えるITS関係者が集まっていた。
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ITS-WCベルリンでのPanasonicブースにて
Berlinのコンパニオン・通訳者と

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ITS-WCソウル
(左端が原島専務 右端が筆者)

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京大:長谷川教授を囲んで
(左端:筆者 隣:金子技師 右から3番目:長谷川教授)

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ITS-WC Berlinでpresenterをする部下:金子技師

 ITS産業では総額60兆円規模のビジネスが有ると有名なシンクタンクは予想した。ETCでは料金所渋滞の軽減で12兆円の経済効果があると試算した。ただ、その後これらの経済評価を検証したデータは見受けられない。
 1999年末にまた常務に呼び出された。今度は通産省外郭団体への出向要請だった。目的はDSRCをETCだけに終わらせるのではなく、その応用システムを調査研究してくれとの事だった。言われなくても社内で推進する事を考えていたので、会社を離れまた虎ノ門のofficeに行くのも悪くないと思い承諾した。出向先のJSK(自動車走行電子技術協会)は通産省産業政策局自動車課の管轄で、自動車メーカーや部品メーカーからの出向者で占められていた。
 DSRC応用システム調査研究を委員会形式で立ち上げた。委員長には慶応大学:柏木教授になって頂き、委員には学識経験者4名を人選した。ITS-WCで活躍中の埼玉大:長谷川教授と初めて会い、電子情報通信学会(IEICE)でITS研究会が有ることを知り、学会に入会し専門委員となった。上智大の加藤教授(以前から知合い)にも協力頂いた。NEDO(新エネルギー・産業技術総合開発機構)に応募し、16億円の予算を活用し調査研究を実施した。下の図は応用システム例で実際に松下の花巻テストコースでデモシステムを構築し実験検証した。また、16億円の内7億円を活用しETC車載器普及の為、代表的な産業界に無償でETC車載器を提供した。
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 ETCの実用化サービスインは1999年4月を目標としたが、ETCインフラとETC車載器の通信トラブル等で運用開始が1年伸び、2000年3月となった。インフラメーカー数社と車載メーカー数社の組合せテストでOK/NGの連続だったと聞く。
 インフラシステムの発注は一般競争入札で開始されダンピング競争となった。松下はなかなか受注が出来無かったことを知り、受注責任者の松下電器:東京支社長(常務)、松下通信:川田社長にジョイント(JV)受注を具申した。JV相手はトヨタを推薦した。結果、受注に成功しその後全国の25%シェア(事業企画では目標:23%だった)を確保した。2年間で約250億円の受注を果たし開発費は十分にカバーできた。
 ETCの普及は国土交通省の扇千景大臣の一声でETC利用者は土日一律1,000円の課金施策で90%を超えた。我が国は世界一のETC普及率を達成した。松下単独の開発だったが共同研究メーカーを抜く実績を残した事は筆者にとって一生の思い出となった。
 電気自動車(EV)活用によるカーシェアリング普及促進調査検討委員会にも参画した。担当の主体は日産・スズキ・ダイハツの車メーカーと矢崎総業だった。このprojectも今では実用化され一般の自動車社会に流通している。
 一年間の出向を終え、2000年6月復帰先の事業部朝会で挨拶をさせられた。初めての経験であった。この時、パナソニックにITS事業部を立ち上げる事を話した記憶がある。

 松下通信には電卓事業部があったが筆者の在籍するデータ制御事業部と合併し、1983年に情報システム事業部として新たな事業部が発足した。電卓から長工電子科卒の一期生:故小高氏が法人営業部販売促進課に在籍していた。ある時、筆者を訪ねてきて同窓であることを知った。小高氏から他にも松下通信に同窓生が在籍していることを聞かされた。暫くして長工OB会が発足し会合を持った。全て小高氏のお膳立てであった。
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長工OB懇親会での一コマ (左端が小高氏 その隣が筆者
右から3番目が長工マンドリンクラブ部長だった同期の久保君)

 この親睦会は何度か続いたが、小高氏が不幸にも交通事故で亡くなって会が自然消滅した。小高氏には長工同窓会東京支部に誘われ何度となく上野池之端文化センターに足を運んだ。その会で現在の原副支部長(同期)とも顔を合わせた。2002年3月に長工OBによる母校での創立100周年事業「100人リレートーク」に臨んだ。友人の山崎君が筆者を推薦してくれたようであった。テーマは「ロマン&チャレンジ スピリット」だった。これがきっかけで本部の同窓会にも初めて参加した。
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本部同窓会でのS46卒同期生の一コマ(左から3人目が筆者)

 2000年9月に電子情報通信学会北陸支部から招待講演の依頼が来た。会場は新潟大学で工学部教授の紹介だった。テーマは「高度道路交通システム(ITS)とGIS(地理情報システム)」だった。この時、東大名誉教授(当時は中央大学教授)の伊理正夫氏(GISの国内第一人者)と同席した。その後、中央大学理工学部で伊理教授、羽鳥教授(東大名誉教授:郵政省電気通信技術審議会の委員長に長期間就任した世界的権威者)と長年お付き合い頂いた。
 娘が小学生となりファミリーキャンプを始めた。当時はファミリーキャンプが大流行していた。
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キャンプの一コマ

 河口湖畔を皮切りに青木湖・聖湖・流葉スキー場・九頭竜湖等オートキャンプをその後長年続けた。奥飛騨の平湯キャンプ場、津軽岩木山いこいの村キャンプ場は何年も連続で行った思い出の地となった。普段ほとんど家にいない会社生活で夏休みは唯一の家族サービスだった。
 松下電器では1977年、世の中を驚かした25段跳びの山下新社長が誕生した。その後、ビデオの世界でVHS-ベータ戦争をソニーと戦い勝利した谷井氏(入社時代の製造実習で面談を受けた)が1986年社長に就任した。
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社長就任で松下通信を視察している谷井社長

 1990年米国のMCAを子会社化しエンターテインメント事業を推進したが、5年後の1995年事業に失敗しMCAを手放す。松下にはソニーと違いエンターテインメント分野に素養の有る社員は皆無だった。1992年東京の青物横丁に情報通信システムセンターを建設(ピラミッド構造の贅沢ビルと言われた)発足させた。筆者は3年のブランク期間にこのシステムセンターの設備管理システムに一時関わった。松下でも情報通信という言葉が一般化した時である。谷井社長は1993年経営悪化の責任を取り、森下新社長にバトンタッチした。
 ETC特別プロジェクト室長時代のお世話になった方々。
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川田社長

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経理担当:土井専務

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技術担当:原島専務

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藤原常務

 川田社長は中村社長体制下で松下電器副社長に就く。土井専務は松下興産の負の遺産を整理するため松下興産社長に就任した。原島専務はNTTから来られた方で退任した。
 筆者を応援してくれた方が居なくなった。松下通信の子会社化が現実帯びた時である。
 筆者は2000年6月に事業部復帰後、企画部に在籍したが半年で本部のシステム事業推進センターに異動となった。松下通信で新たなシステム事業を模索する事となった。平成の市町村大合併を睨んだ自治体行政電子化や離島のブロードバンド化に伴う調査検討で長崎県や佐賀県の委員会に参画した。2001年には松下グループ内で人員整理の早期退職者募集が始まっていた。55歳以上の社員は裏で肩たたきされた噂話が広まった。筆者はこの時48歳だったが朝会でITS事業部発足の夢が崩れ去った時だった。
 2002年6月中村社長が就任し事業体制の抜本改革が開始された。社長就任後、東京有楽町の東京フォーラムでPanasonic情報システム展が大々的に開催された。筆者はこの時会場でITS事業の説明をしていた。どこかで見た事のある人が近づいてきた。中村社長であった。今までの松下では社長には数人のお付きがいて、社内ビデオNewsのビデオが廻っていた。しかし、中村社長は1人だった。君が野﨑君ですかと声をかけられた。貴方が幸之助氏の13番目のお子さんですかと言いたい所だが堪えた。幸之助氏にそっくりのお顔だった。アメリカ帰りの社長は何故日本ではETCが遅れたのかなど質問してきた。この時初めて事業改革でAVCを主とした体制に移行するからインフラ事業は本業としない事を言われた。また、松下通信を一部上場企業から完全子会社化するとも言われた。筆者はこの時、満50歳早期退職を決意した時だった。森下会長は大阪京橋のツインタワーに会長室を置き、大阪出張時にお会いする機会が有った。秘書の方に北新地で御馳走して頂いた。
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中村社長

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北新地のクラブでの一コマ

北新地のクラブ
での一コマ

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室長時代の一コマ

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唐津一氏:東海大教授

 唐津一氏は通工に異動した時、松下通信の常務をされていた。松下通信発足時の松下幸之助社長に乞われて電電公社からヘッドハンティングされた方だった。品質管理のデミング賞受賞者でもありシステム工学の専門家だった。松下通信のシステム人材育成に関わった時、教えを頂いた忘れられない人だった事を記す。
 2003年初に満50歳早期退職を申し出た。松下時代最後の上司となった(早稲田大理工学部卒の営業畑)システム事業センター長とはトヨタの富士スピードウェイのメインスタンド音響設備構築や大分の町村CATVシステム、福岡アイランドシティ交通インフラ整備提案、沖縄の地域活性化事業で地元の関係先大学等にお供頂いた。2003年3月末で退職する際、2月に沖縄で所長の同期(沖縄支店長)と送別会をやってくれた。松下退職後も一番長いお付き合いの一人である。
 2003年3月20日 東北大学でIEICE総合大会が開催され、一般公開の特別講演会「雪国のITS」で座長を務めた。この時、ノーベル賞を受賞した小柴氏、田中氏を招いた講演会も開催され思い出深い学会活動となった。これが最後の松下での活動だった事を記す。
 ただ、社内では学会活動は一文にも成らないと批判的な考えを持つ人が少なくなかった。会社生活32年間を過ごした松下電器は筆者にとって最高の会社だった。姉が日立に勤めていて日立には絶対来るな。大卒でなければ駄目だと言っていた事を今でも思い出す。その点、松下は比較的学歴には拘らず自由にさせて頂いた。勤続30年のお祝いに30万円の旅行券をプレゼントされ、初めて家内とAustralia旅行を楽しんだ。

 第9話では松下退職後の第二の人生を回想する。