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《人生の回想》

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第7話 委員会活動・技術コンサルとシステム受注への日々
野﨑(旧姓:椿)敬策(S46e)
 松下通信に転勤して二年後に中研の製品開発研究所からPOSシステム開発部隊が事業部に転勤してきた。その中に高卒同期入社2名、大卒で同期入社の中研コーラス部で一緒だった1名(彼の結婚式に招待され大阪まで行った時以来の再会)がいた。高卒2名は寮で同じ部屋になった。転勤時に色紙を頂き送り出されて以来の再会だった。

 思い出深い旅を二つ紹介する。大卒で同期入社された中に高松出身者が他の事業部にいて、筆者を含め4人で四国一周の旅をした。高松でレンタカーを借り、車での四国巡りであった。筆者はまだこの時免許は持っておらず、楽しく気楽な旅だった。また、寮でJazzを通じて知り合った同期入社の仲間3人で高山から能登にドライブ旅行した。
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四国の瀬戸内にて(筆者の右端は同部門)

四国の瀬戸内にて
(筆者の右端は同部門)

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高山の宿で知り合った女性と

 YMCA以外での楽しい思い出として今も脳裏に焼き付いている。

 当時は社内結婚が多かったが、筆者は人生の伴侶(音大声楽科)をYMCA合唱団の中で見つけ24歳で結婚した。他にも多数の音大卒でピアノ科出身の女性がおり迷った事を記す。両親にはまだ早いと言われたが。何しろ同じ年に三つ年上の姉も結婚した事も有った。ただ、この時を逃すと一生独身ではないかと何故か思った。仲人は職場の技術部長(転勤のきっかけとなった方)にお願いした。椿性から野﨑性への転身(親には大反対されたが)であった。今年で結婚生活45年を12月に迎える。
 式場は青山の青学会館(青山学院大学構内)だった。大阪からもコーラスの先輩や元上司を招いた。相方側は音大の同級生数人を招いていた。YACAからは二人に共通な親友を招いた。また、YMCAの合唱団はお祝いの歌をやってくれた。親戚は遠路新潟中の島・長岡・三条から駆けつけてくれた。式後、合唱団の方を式場近くのレストランに招き二次会を行った。ハネムーンは初めての沖縄に行った。本島・石垣島・竹富島・西表島を巡るツアーだった。
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 筑波博で開発したデユアルモードバスシステムの路車間通信技術(電磁誘導通信:世界初)を応用したバス接近表示システムを世界初で新宿西口に他のメンバーが納入していた。無線通信は無線免許の取得が必要で手間暇がかかる為、免許のいらない通信技術を目標に開発した事を後で知った。開発者はその後、筑波大の教授に転身した。短いお付き合いだったが通信についていろいろ教えて頂いた。このバスシステムを発展させ、都内全域のバス運行管理システムの構築に取り掛かった。主担当は大阪大卒の先輩だった。バス事業は運輸省の管轄で当時は公共交通の利便性向上に施策を打っていた。仲人の技術部長は松下グループ内のソフト会社社長に就任したため、新たな技術部長(筑波博でデユアルモードバスに関わっていた)に交代した。都バスシステムの業務系は日電の牙城で受注合戦をした結果、運行系を松下で業務系を日電で決着したようだ。都内19営業所で約2,000台の路線バスが運行していた。このシステム開発を技師(主任職)として任された。当初は日本道路公団の東名高速交通管制システムの受注を目指す予定だったが、1年先送りしバスのシステムにタッチした。
 都内を地区三つに分割し、各地区(新宿・錦糸町・品川)にPFU-1500、各営業所(19カ所)にL-16Aを配置し、各地区をデルタ上にオンライン接続するスターネットワーク構成とした。回線が切れたり地区システムがダウンした場合はデルタ回線を通して近い地区でバックアップする仕組みとした。都交通局は有楽町の交通会館内にあり、そこの業務系コンピュータと各地区をネットワーク接続した。このシステムを1年がかりで構築した。ちなみにソフト開発はおのずと新会社(松下グループ内のソフト開発担当)にお願いした。

 この頃、新潟では新県庁の建設が進められており、この新庁舎に合わせて早めの交通管制システムの更新(本来は10年がシステム更新を目処としていた)を実施していた。担当は同期の一人だった。県警の交通規制課長は珍しく交通局出身では無く、中野の情報センター管理室で情報処理に精通した方だった。松下の担当者はエンドユーザーの要求に応えられていなかった様で、急遽、筆者に担当替えが有った。
 31歳で初めてbusinessで故郷の地に立った。交通規制課長に挨拶に行った際、ナンバープレート読取システムで中野の情報センターに行った時の話などで通じ合い、翌年の3月までに新システムを構築した。この時一緒に仕事をしたのが早稲田大卒の優秀な部下だった。引き続き長岡の管制センターまで担当し警察交通管制の仕事に終止符を打った。
 打ち上げでは県警の幹部に誘われお酒三升(越乃寒梅、雪中梅、白梅)が眼の前に有った。三升を四人で飲み明かした。料理は鰻の白焼きなど。美味しかった。その後、古町の繁華街に繰り出した(営業抜き)。クラブでは警察関係者はヤクザ顔負けの状況だった。初めて警察関係者と飲んだ貴重な体験だった。ちなみに最初のお店は旧県庁に近い漫画家:水島新司(ドカベン)の学校町の生家だった。
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新潟県警本部センター

矢印

新潟県警察本部 交通管制システム全体構成

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opening前の交通管制室(大空間)

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opening ceremonyのリハーサル

 社内では経営グローバル化を推進する中で海外派遣社員の募集を行っていた。人事部に自ら応募する制度で上司の許可を必要としなかった。筆者は駐在先の中からSwitzerlandを選択し応募した。ほぼ内定が決定していた頃、夕方、営業課長から関内の有るお店に呼び出された。部屋に入ると技術部長が席に居た。何か悪い予感がした。先ず一杯とお酒を勧められた。本題に入ると、横浜市交通局のバス運行管理ステムの受注活動に関わって欲しいとの話だった。ライバルに富士通、NTTデータなど数社がいたようだ。この席で初めて海外派遣の話をすると辞退するよう説得された。意思を通していればまた違った人生が拓けたのに、泣く泣く承知してしまった。その後の提案活動では都交通局の実績もかわれ結果は見事受注に成功した。

 首都高速ではトンネル防災での納入が評価され、将来交通管制システム委員会に参画できた。ハード部会とソフト部会が有り、筆者はソフト部会に参画した。初めての会合で委員長の東大:越教授を紹介された。長年、国内で交通工学の第一人者として道路交通に関わってこられた人だった。他の委員には横浜国大:大蔵教授、中央大学:鹿島教授そして建設省からは土木研究所でお世話になった柴田室長(退官後、前橋工科大学教授に就任)らがメンバーだった。この委員会でシステムを収集系・処理系・提供系の機能分割構成を提言し、商売として収集系と提供系の一部を受注した。その後、首都高速では最終的に情報収集系(交通流計測)、提供系(ハイウェイラジオシステム)、トンネル防災システム(東京地区、神奈川地区、湾岸線多摩川)のシステムに関わった。
 一方、日本道路公団では交通に関わる納入実績は車両感知器とその計測処理装置のみだった。目指したのは渋滞・所要時間計測/予測や提供系のハイウエイラジオ等で高度化したシステムを構築する事だった。
 東京第一管理局は東名高速を管轄していた。初めて定方部長(交通工学者)、転勤が一緒だった課長、筆者の三人で交通管制システムの提案を行った。東名のシステムは某コンピュータメーカが行っていた。提案では情報収集精度向上のセンサー配置から交通情報処理アルゴリズム等をポイントとした。当時、全国の高速道路は交通工学面からみるとお粗末なシステムだった。提案活動が功を奏し、東名高速の受注を皮切りに中央道への展開も出来た。システム開発には慶応大卒の優秀な部下に担当を任せた。
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高速道路に関わるシステムの一部

(左上:多摩川トンネル防災 右上:高速道路交通管制室

左下:SA情報ターミナル 右下:阪神高速 突発事象検出)

 名古屋高速でも路線拡大に伴う新交通システムの委員会が設置され参画した。名古屋は京大系の学識経験者で占められていた。
 阪神高速では営業管理(料金収受システム)に将来のETCを見据えた委員会が設置され参画した。交通管制システムは委員長が京都大:飯田教授(関西での交通工学の第一人者)、メンバーに同志社大や府立大等の教授が名を連ねた。ETC系では京都大学:長谷川教授(計算機・情報処理工学が専門)が委員長を務めた。かつて松山の件で愛媛大でお世話になった朝倉教授(その後、神戸大に異動)もメンバーに加わってきた。長谷川教授、朝倉教授とは松下離職後も長年に渡りお付き合い頂いた。
 営業管理システムは某コンピュータメーカとの一騎打ちだったが、初めて受注に成功した。料金所端末系は三菱重工が納入していた。
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有馬温泉での打ち上げ記念写真:前列左から3人目が筆者

 阪神高速では六甲山の裏の北神戸線のトンネル防災を首都高速の実績で受注納入した。首都高速の実績は国内では影響力大だった。
 システム発注までのプロセスは、委員会等で基本構想を行い、それを受け技術系コンサルがユーザーと仕様を詰め発注仕様書として纏める。これをもとに、一般競争入札・指名競争入札等で業者が決まる。昔は一度受注すると随意契約が主流だったようだ。
 建設省関連では技術コンサルの仕事をサポートし、自社に有利な仕様化を行い受注につなげた。ある時はコンサルの名刺でユーザー打ち合わせにも参加した。
 横浜と東京は3本の道路(第三京浜、国道1号、国道15号)で結ばれ、交通量の増大で渋滞を至る所で起こしていた。此の対策に建設省本省自らのりだし、京浜システム調査委員会を立ち上げた。委員会メンバーはほぼ首都高速の将来交通管制委員会と同様だった。開催場所は虎ノ門の霞が関ビル33階の霞山会館だった。窓から下に虎ノ門交差点が見えた。
 余談だが警視庁の交通管制にも高度化提言でチョット関わった。担当メーカ住友電工だったが。
 この委員会で初めて図形表示板を提言した。ドライバーの視認性を考慮しデフォルメ表現した道路形状の図に渋滞表示(赤、黄、緑の三色)する内容だった。この結果は首都高速の交通管制システムに初めて採用され現在に至っている。
 委員会への参画は筆者を含め四人(システム部門に異動してきた二人:二人は首都高速 あと一人はナンバープレート読取で一緒の人:阪神高速のみ)が対応した。この経験で有識者・学識経験者との人脈が形成された。退職後の第二の人生に深みを得る事となった。

 32歳で椎間板ヘルニアとなり手術した37歳までステッキ(杖)に頼る生活が続いた中での活動だった事を記す。入院期間は当時の医療技術では45日間と長きにわたった。今では二日で退院との事だが。スキー人生にも終止符を32歳で打った。此の入院をきっかけに3年ほど現場から離れた。そろそろ課長職(主任技師)の声がかかる頃だったが、人事制度が変更となり主任職と課長職の間に主事職が追加された。主事職には丁度40歳で昇格した。年齢的には少し遅れていたが、3年間のブランクが響いたようだ。

 第8話では40代から早期退職までを回想する。