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《人生の回想》

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第6話 システム事業へのチャレンジの日々(転勤後の10年間)
野﨑(旧姓:椿)敬策(S46e)
 松下通信工業は1958年(昭和33年)に産業用エレクトロニクス分野進出を目的に松下電器から分離し設立された。システム関連に的を絞ると電子計算機:MADICを生産し東京オリンピックの1964年(昭和39年)には銀座広域交通管制システムを日本で初めて開発運用した。しかし、この年に松下はコンピュータ事業から撤退を表明。その後、計測制御機器としてMACC-7を生産した。筆者が松下通信に転勤した時はまだ生産しシステム事業に活用していた。1973年(昭和48年)富士通と松下でパナファコムを設立し、マイコンやミニコンピュータの生産を開始した。松下通信では7つの事業部が有り、コンピュータ以外ではタクシー無線・カーラジオ・放送用設備・視聴覚機器・インターホン・ダム管理・電卓・ポケベル・携帯電話(自動車電話含む)等様々な製品を開発販売していた。転勤当時、工場は横浜地区に綱島工場と佐江戸工場の二か所、地方には松本工場、白河工場、花巻工場があった。その後、掛川工場が携帯電話専用工場として建設された。
 筆者が高校3年になる春休みに就職活動の一環で工場見学が実施され、東芝・日立そして松下通信(横浜:綱島)を訪問していた。松下とのご縁が有ったと転勤時に思ったものである。
 転勤先の事業部はデータ制御事業部だった。社用車で新大阪まで送られ、新幹線で新横浜に到着した。ホームで受け入れ部署の主任さんが出迎えてくれた。かつて工場見学で行った横浜の綱島本社に到着した。当時まだ東急線は高架では無く、工場の周りは畑だったと記憶する。ちなみに渋谷方面の隣駅は日吉で慶応大学日吉キャンパスがあった。
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設立当初の松下通信と周辺風景

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綱島駅と踏切

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日吉駅慶応大学側出口

 赴任先に到着後、人事課で事業部の概要を概ね聞かされ、作業服と名札を渡された。住まいは綱島第一寮だった。またしても4人部屋二段ベッドの生活に逆戻りとなった。第一技術部に案内され部長に紹介された。部長は個室では無く大部屋の中央窓際に白い布で覆われた背当てと腕乗せ椅子のデスクに座っていた。事業部はこのスタイルだった。チョットしたカルチャーショックを憶えた。この事業部では公共事業と法人向け事業を担当し、コンピュータや通信・端末機器からなるシステム事業を展開していた。
 技術部が二部門在り第一技術部では警察本部の交通管制システムの開発納入が主だった。他に建設省の道路情報システムや鉄道のATS(自動列車停止装置)等も担当していた。第二技術部は法人向けシステムを担当し株価証券ボードやマクドナルドのPOS端末などを開発していた。郵便局の窓口会計端末装置は当時法人では無かったがこの部門で開発していた。後にパソコンやワープロの開発も行った。
 筆者の部署は第一技術部第五設計課でシステム全体設計とソフト開発を行っていた。恥ずかしい話であるが、松下通信では他の事業部も含め自らソフト開発する技術者は殆どいなく、ほぼ外注(共栄会社と松下では云った)任せだった。システムの基本設計プロセスまでは担当するがその後の詳細設計以降は実施していなかった。パナファコム設立後、システム開発技術者要員の新入社員は2年間富士通でシステム研修を実施し、その後事業部に配属された。筆者の部署には4人の富士通研修修了者が配属されてきた。ソフト・システム技術者が増員されたが、松下商魂が無く富士通気質で育った彼らには最初手をやかされた。松下通信全社のシステム技術者育成にその後関わる事となり、人事部門への人材育成提言を行った。
 筆者が最初に担当したシステムは建設省の道路情報システム開発だった。課員のほとんどは警察関連を担当していた。警察庁は全国の都道府県毎に信号制御を目的とした交通管制システムを展開していた。当時は交通事故死者数が1万人を超える状況にあり、この死者数減少を図る為多くの信号機を設置していた。松下は全国の4割ほどを納入していたが、その後行政指導により3割位になった。シェアが多かった理由は信号制御にスルーバンド法(定方理論:松下退職後東海大教授に就く)を提唱した事による。一方、建設省は直轄国道の道路情報管理を目的に渋滞や気象、工事規制に関わる通行情報の提供を主としていた。関東地方建設局の東京・千葉・横浜の各国道工事事務所を最初に担当し、その後全国へと展開した。北海道は建設省管轄ながら北海道開発局と称していた。
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 上記写真は中部地方建設局内に設置した道路情報システムの管理室である。
 下記の写真は筆者が転勤のきっかけとなった愛知県警察本部の交通管制ステムである。
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 警察・建設の両システムとも松下製:MACC-3300(F)/6500(L)を中央装置に使用していた。当初、IBMを使ってきた筆者にとって紙テープパンチ・入力のシステム開発は非常にかったるかった。開発言語もアセンブラーと2パス(翻訳プロセス)FORTRANだった。しかし、その手段しか当時は無かった。その後、筆者と一緒に転勤した方がIBM上でMACCのソフト開発が出来るコンパイラーを開発してくれた。IBMマシンは松下通信の計算機室でも採用していた。これにより言語もFORTRANを主として使える事となり、紙テープからカードに変り開発効率が飛躍的に向上した。ただ、カードパンチャーは全社の計算機室しか行っていなくてわざわざ遠い別部門まで往復した。
 交通管制システムが更新時期に入り、筆者もパナファコムの最上位機種:PFU-400を活用したシステム開発を担当する事となり警察との初めての関りとなった。 中央システムと交差点の信号制御機とは一秒単位の歩進制御で青・黄・赤の表示をコントロールしていた。また交通状況は道路上に設置された車両感知器(超音波式・ループコイル式)からの信号を50ms毎に収集処理し、台数・速度・占有率計算を行っていた。
 通信にはFDM(周波数分割多重)とTDM(時分割多重)の二方式が有り、交通管制システムもこの2タイプを開発納入していた。M-32がFDM、PANATRAC-300がTDMを採用していた。両方式とも一長一短で制御交差点数は320と300だった。どういう基準で各警察本部が採用したかは不明であったが、担当営業がいずれかを押したのではないかと思う。ここでも開発リソースが二分割されていた。
 技術部は70名程の技術者で構成され課が5つあった。同期入社が高卒・大卒併せて8名いた。中央ハード・システムソフト・端末(センサー系と制御系の二課)・マンマシンの技術課構成だった。筆者はシステムソフトの課で転勤のきっかけとなった部長研修候補の方が所属課長だった。一年後には部長職に昇格した。新横浜で出迎えてくれた主任はその後任課長になった。
 システムソフトを担当する課には同期入社の高卒3名(筆者含む)、大卒1名で全体では10名程度だった。後輩の高卒1名、先輩方は全員大卒(1名は高専卒)で数学科出身者も3名いた。信号制御はパラメータの塊でこのパラメータを設計する担当とプログラムを担当する役割が有り、パラメータ設計には筆者以外の5名程が担当していた。プログラム担当は自ら組むよりソフト開発管理が主だった。当然、システム全体の設計から納入調整までの業務は課長職を除くほぼ全員が行っていた。
 パラメータの自動設計システム開発を転勤が一緒だった上司と筆者が行った。イギリスで開発されたTRANSYTアルゴリズムを入手し、交通管制システムに改良反映させた。当初、IBMマシンの下で自動設計し、MACCにダウンロードする形態だった。その後、MACCシステム上でのパラメータ自動設計化を行った。パラメータ設計者の負担が減ったのは言うまでもない。
 交通管制システムの制御アルゴリズムから全体のハード・ソフトを理解し、PFU-400のミニコンを上位系、MACCを下位系とした上下位構成による更新システムの開発に携わった。第一号は群馬県警だった。ソフト開発は富士通系のソフト会社に依頼した。その中に松下から研修に行った初のメンバーが4名いた。高専卒1名、大卒3名(東北大、慶応大)で彼らとシステム開発から現地調整まで行った。同じ松下社員だったが彼らは下請けの身と勘違いし、筆者に使われていたと誤解した。群馬の後、神奈川・広島を担当した。富士通SE研修を2年受けた彼らはその後筆者と同じ部署に配属された。
 エンドユーザとの交渉でソフト費を承諾頂くのに苦労した。当時、ソフトはコンピュータ(計算機)に付き物と理解され、ハード費用は認めるがソフトはタダとの認識が強かった。ソフト開発は人件費の塊でその辺のプロセスを根気強く説明し理解を得た。ちなみに、コンピュータを専門に開発販売するメーカーは当時ハードにソフト費を上乗せしていた経緯があった。
 下記の図は筆者が退職した頃の最新の交通管制システム全体構成概念図である。このパンフレット製作にも筆者が主となりTouchした。
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 建設省の土木研究所内に千葉国道工事事務所の道路情報システムがあった。システム導入の1号機で東北大出身(S46同期入社)の先輩が担当していた。彼から担当を引き継ぎ、国内初の渋滞予測機能を有するシステム高度化に携わった。土木研究所の主任研究員は東大土木科出身で交通工学を専門としていた。国道14号線を対象に千葉から東京までの渋滞予測(インプットアウトプット法)を行い、この結果で高速道路の京葉道路と国道14号線の一般道を利用するかの経路選択に活用するシステムだった。Simulationは土研のTOSBAC-5600で行い、そのソフトをMACCに移植した。IBM以外の汎用計算機を初めて活用した。マシンは24bitWordマシンでMACCへの移植にはcord変換が必要だった。
 高速道路の交通管制システム受注が次のターゲットだった。都市内高速は東京・大阪が既に他メーカーにより導入運用されており、松下は名古屋高速を狙った。規模は一回り小さくコンパクトなシステム提案が功を奏し受注に至った。車両速度が一般道に比べ速く、車両感知器処理は50msのサンプリング処理から20msとなった。提案からシステム設計までは先輩方が行っていた。このシステム開発でPFU-400を使ったのは言うまでもないが、96KBの記憶容量で20msサンプリング処理から渋滞判定・マンマシン処理・交通統計の年報処理までを行う機能構成だった。定型のOS(オペレーティングシステム)では記憶容量が小さすぎ実現不可能だった。OSの内部資料を入手し、無駄な処理を徹底的に省きシステムを実現した。しかし、この作業は社内の計算機室を借用し孤軍奮闘する事となった。事業部のマシンはフル稼働で空きが無かった為である。出荷前の工場立会検査で実本番に近い形でユーザー検査を受けた。それまでのシステム立会検査は形式的で実質現地搬入後に実施されていた。名古屋の大高に交通管制センターがあった。ここでの現地試験に臨んだ頃、上司から横浜へ帰社せよとの指示が突然あった。
 社内では交通分野に次ぐ新たな分野を開拓しつつあった。原子力発電所の入退出管理システムだった。原発で働く人たちは何らかの放射線被爆を受けていた。国の基準できめ細かく被爆線量管理がなされていて、放射線被爆量を測定する素子を松下は開発していた。この素子を武器に原発プラントの一部となっている入退出管理システムを初受注し開発中だった。社内の機能試験でトラブっていた。此の応援で呼び戻されたのである。筆者は最後まで高速道路の交通管制システムを完成させたかったのにと思った。
 原発のシステムは前述した慶応大卒で富士通SE研修から戻ってきた人が担当していた。試験を続ける中で基本的な間違いを犯したシステムだった事を筆者は指摘した。原発従事者は全国で5万人ほどいるが、入退出時にgateを通過する時間が掛かり過ぎ、人数が増えれば増えるほど待ち行列が出来る設計となっていた。シーケンシャルsearchからダイレクトsearchへの変更が必要だった。システムの作り直しである。翌年3月の納期には当然間に合わない。ユーザーである電力会社の原子力部に説明し、新たなシステム構築を3か月の期間延長でお願いした。何故かこの矢面に筆者が立たされた。説明の中で原子力部長から3月までに仮システムを構築し、その後本番システムを納入するよう指示された。この内容を事業部長に報告し、納入マシンとは別のマシンを一台調達してもらうようお願いする羽目となった。正月休み抜きで仮システムの設計からプログラムコーディング、テストまでを筆者を含め3人で行った。四国の伊方原発に仮システムを3月末までに無事納入運用を実現した。11月末に四国の高松に出張し3月末までの長期出張となった。横浜に帰宅した時、偶然にも長女が生まれた。3月31日である。しかし、トンボ帰りで本番システムの現地テストが軌道に乗るまで高松と宇和島(伊方原発の麓)を往復した。その後、浜岡原発のシステム設計を任された。伊方原発で最後まで居た人達は宇和島の海の幸を堪能した事を後で知る。次期システムはPFU-1500(新機種)を3台活用したマトリックス構成を採った。富士通の中原工場内にシステム構築し工場テストの開始まで行い、伊方原発のメンバーに引き継ぎ新たなシステムにまたchallengeする事となった。
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伊方原発に納入した中央システムのコンピュータルーム

 1979年(昭和54年)に東名高速下り線の日本坂トンネルで大規模な火災事故が発生した。これを機に全国のトンネル防災システムが見直された。当時、首都高速道路内には大小のトンネルが数多く存在していた。車の通行量も多くもし火災事故が発生したら一大事になるのは必至だった。松下電器はオイルショック後経営危機に立たされていた。白物家電に従事していた社員は大きな異動配置換えを余儀なくされた。システム部門を希望する二名が異動してきた。一人は信頼性設計に長けており、トンネル防災システムの信頼性設計を武器に首都高速に提案活動を繰り広げた。1981年11月(昭和56年)既存システムメーカを蹴落とし新規システムの受注に成功した。入社10年目の筆者はこのシステム開発を任された。PFU-1500を2台上位系(ホットスタンバイ方式)にL-16A(MACCの後継機種)のマイコンをトンネル毎に対応する下位系に配置した。マンマシン系には初めてカラーグラフィックCRTを導入した。機能として火災発生から水噴霧まで行う運用監視訓練できる仕組みを国内で初めて組み込んだ。当然、システムの監視制御を常時やる中での裏機能である。翌年3月が工期の短期スケジュールであり、ソフト開発効率化の観点からディスプレイエディタとキーツーフロッピーを他部門で開発したパソコンで実現し、FDDからプログラム入力しコンパイルする事で開発も一段と早まった。最終の現地テストでは実際にトンネル内で火災を発生させITVと自動連動し火災区画確認後の水噴霧に至るまでの一連の動作確認を行った。対象トンネルは千代田トンネル・三宅坂トンネル・八重洲トンネルなどの7トンネルを対象とした。ただし、東京港トンネルは管理管轄外で対象外だった。
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首都高速:千代田トンネル付近

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三宅坂トンネル防災監視制御室

 このシステム開発で昭和57年度の創業記念式典で松下電器本部長賞(松下通信社長賞)を頂いた。
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後列の右から3番目がシステム提案者 2番目が筆者 右端が後のNシステム端末担当者

後列の右から3番目がシステム提案者
2番目が筆者 右端が後のNシステム端末担当者

 このシステム開発が功を奏し、以降、首都高速道路の様々なシステム導入が実現した。
 システム商品は技術部門以外に生産管理、購買部門、製造部門、品質管理部門、アフターサービス部門、現地営業・工事部門・現地サービス部隊そしてシステム営業の多くの方が関わっている事を実感した。各担当の方との協力・信頼関係が良い仕事をする上で如何に重要かを知った。「相互理解」は筆者が常日頃口にした言葉である。
 1982年(昭和57年)秋に警察庁刑事局から車のナンバープレートを読み取るシステムの公募が行われた。何社かが応募したが、三社が見事にこの公募を勝ち取った。松下、日電、三菱である。霞が関の警察庁を初めて訪問したが、当時はセキュリティチェックも思ったより緩かった。刑事局内に委員会が立ち上がり、基本検討から仕様化しプロトタイプ開発を行った。委員会はナンバープレート読取装置(端末)とセンターシステムの二分科会で構成された。端末は高専卒で同い年の画像処置を専門とする技術者が担当した。筆者はセンターシステム分科会を担当した。このシステムは盗難車の捜索や事件で逃げる車両の緊急配備を支援する目的であった。1983年(昭和58年)11月にアメリカのレーガン大統領が初来日する予定が有り、この警備に向けて開発が進んでいた。しかし、スケジュールがタイトで間に合わず、首都高速の主要料金所にカメラを設置し、オフラインでタイムラプスビデオの映像解析しナンバープレート認識する事でしのいだ。センターシステムは警察庁の中野にある情報センター(犯罪者管理・免許証登録システム等がある)内に設置された。現在は「Nシステム」として広く一般に知れ渡っているが、当時委員会ではプライバシー問題等で顔は写す/写さないやデータ保管をどうするなど法的問題も議論された。ただこの委員会では有識者は入っていなく、刑事局とメーカーのみだった。刑事局の方々は東大法学部卒等まさにエリートキャリア官僚だった。刑事局と最初で最後の関りだったが貴重な経験をさせて頂いた。

 話は戻るが、松下通信に転勤し翌年二十歳を迎え本社前で記念写真を撮って頂いた。
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「新二十歳の会」の記念写真:後列左から3番目が筆者 右端は人事部長

 1983年(昭和58年)の新年度に入って技術部長から3名が別室に呼ばれた。主任職の昇格候補の話だった。高卒の筆者、札幌高専卒(筆者とナンバープレート読取で端末装置開発者)、東北大卒(富士通SE研修受講者で二つ年上)の三人であった。筆者は丁度30歳になっていた。半年間の研修後、事業部長(数名)面談が有り三人とも見事昇格した。同年11月に昇格記念式が行われた。松下では技術の専門職では技師(主任職)の呼称で、次は主任技師(課長職)・主幹技師(部長職)と言われていた。初めての部下は3名で早稲田・慶応・筑波大卒の優秀な人材だった。

 Privateでは建設省の道路情報システムを当初担当していた東北大卒の同期入社の先輩に誘われ、横浜YMCAの混声合唱団に入団した。ボイストレーニングを二期会のバリトン歌手に指導頂いた。ちなみにコンダクターは俳優:高橋克典のお父さんだった。通常はピアノ伴奏が多かったが、定期演奏会では初めてミニオーケストラの伴奏で歌った。
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定期演奏会にて(最後列の左側男性が筆者)

 休日はYMCAのレクリエーション等で仲間と楽しんだ。
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YMCA子供たちとの集い:前列右端が筆者

 また、松下通信にも男声合唱クラブが存在した。そこで知り合った東工大グリークラブ出身の先輩に誘われ、東工大グリークラブOB会の方達と歌を楽しんだ。この会は家族ぐるみのお付き合いとなった。何故か会社の合唱クラブとは疎遠になった。
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上智大セミナーハウス(日光)にて:後列右端が筆者

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部屋で乾杯!後ろの中央左が筆者

 この当時はスキーブームで冬になると毎週末、工場内からスキーバスが発車していた。また、松下通信は東北出身者が多く職場の先輩(山形:鶴岡高専卒)に誘われ6~7月には月山での夏スキーを楽しんだ。
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月山での夏スキー:前が筆者 後ろが先輩

月山での夏スキー
前が筆者 後ろが先輩

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jumpする筆者

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トンネル防災システム開発時のメンバーと:中里駅 後列左が筆者

 転勤後の10年間は新たなシステム創りにチャレンジした日々だった。入社式で松下幸之助会長の「道を拓く」の言葉通り、まさに転勤後はこれに尽きた。仕事と趣味の両立も出来、充実した会社生活を送った。

 第7話ではその後の10年を回想する。