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《人生の回想》

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第5話 システム創り&コーラスの面白さを知る
野﨑(旧姓:椿)敬策(S46e)
 新入社員が皆販売実習で汗を流している中、筆者は大阪にあるIBMの研修センターでコンピュータ教育を一ヶ月ほど受講した。システム創りのプロセスからプログラム言語:PL/I(FORTRANとCOBOLの好いとこ取り言語)までを一通り学び、修了証書を各プロセス毎に頂いた。
 中研の電子計算機室にはIBM360/40 DOSシステムが鎮座していた。記憶容量:64KB 130MBの磁気DISK(3台)、1,600bpiの磁気テープ装置(4台)、ラインプリンター、カードリーダから構成されていた。空調は水冷式だった。もう一台のIBM1130はミニコンピュータでX-Yプロッターが接続されていた。IBM360の主記憶容量は64KBにもかかわらず結構凄い処理をこなしていた。IBM360は研究者の技術計算から技術本部の事務処理:経理計算等を行っていた。IBM1130はプリント基板設計などに活用されていた。計算機室には社員が20名程で同期入社の大卒は3名で内一人は奈良女子大の数学科出身。女性は全て奈良女子大の数学科出身者数名で占められていた。松下社内で初の女性部長となった人も計算機室に所属していた。他にIBMのソフトウェア開発を専門とする共栄会社(通称:外注)の社員が10数名とキーパンチャーの女性数名であった。
 年に一度技術社員調査を実施するが、調査内容の改定で帳票設計からそのプログラミングがコンピュータを使う最初の仕事だった。当時、技術社員は全社で13,000名程だったが、この調査票をプリントアウトするには結構な時間を要し、平日ではマシンを使わせてもらえず休日出勤で計算機室に立て篭もりアウトプット業務を行った。調査票を回収し、調査内容のカードパンチ処理はキーパンチャーにとって年に一度の大仕事だった。時々差し入れをして労をねぎらった。調査内容に異動希望欄が有り、異動希望者リストの作成も筆者の二番目のプログラミング作業となった。残業等で遅くなる時は上司から寮監に電話連絡してもらう必要が有った。何しろ門限が夜八時という厳しい規則だったため。
 入社二年目の時、新しい計算機:IBM370/VM(仮想記憶マシン)が導入された。その導入記念式に筆者はオペレーティング(火入れ:スタート)を任された。本来なら計算機室のメンバーが行うはずと思ったのだが。
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左下が筆者 後ろの背広姿は総務部長
導入責任者(筆者の後ろ)が賞状を受け取る場面

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中研正面玄関前の筆者

 IBM370/VMはユーザーからすると一人一台のマシンを活用できる仕組みで、リモートジョブコントロールをディスプレイターミナルから行う事の出来る当時としては画期的なマシンだった。それまでのIBM360/DOSでは計算機室に専属のオペレーターがいてJCC(ジョブコントロールカード)と処理フローやデータを渡し処理してもらうクローズドシステムだった。
 研究所や事業部からの要請で日本科学技術情報センター(JICST)データベースと技術社員経歴管理(TCD)のドッキングシステム開発を行った。膨大な情報の中から松下の製品研究開発に必要な科学技術を検索し、社内専門家とリンク付けプロジェクト構成を企画立案する内容だった。ちなみに出身学校で検索すれば長工から入社した社員もリストアップ出来たが、当時は考えがおよばなかった。
 入社二年目で教育寮を卒業し、京阪電車沿線の萱島(門真より京都方面)にある二人部屋の寮に移った。松下では唯一の二人部屋の寮だった。同室には間もなく主任職になる先輩で本社採用部に勤務している方と筆者が転勤するまで一緒だった。松下での人材確保(採用方針)などについていろいろ教えて頂いた。
 松下では当時、事業部個々が独立採算制を採用していて例えば録音機事業部がテープレコーダーにラジオを搭載していたが、ラジオ事業部ではラジオに録音機能を付加したラジカセを開発販売していた。技術社員調査の中で開発分野・製品区分で知った事である。何とリソースの無駄使いかと感じたが、そこが当時としては松下の良い所だったのかも知れない。他にも音響機器を担当するステレオ事業部が有ったが、松下通信の視聴覚機器事業部でもプロ用音響機器と称し販売していた。民生用はTechnics 産業用はRAMSAの商標で世に送り出していた。
 こうしてコンピュータを駆使し、様々なシステム開発を通じ社内の事業構造等も知った。当然、将来の事業計画等や事業を担う人材等も部長研修の資料を通じ知る事となった。ただし、全て部外秘や社外秘の扱いだった。
 入社一年目の忘年会が総務部で行われた。3階のラウンジにアップライトピアノが置いてありお昼休みにコーラスの練習をやっていた。暫し聞き入っていると誘われコーラス部に入部した。忘年会ではリクエストもあり余興として歌を披露した。
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 両脇の女性は同じ技術能力開発室でコーラス部のメンバーでもある。写真の両脇に一段と長身の男性が二名いるが、かつてのオール松下のバスケットボール選手である。また、右端の方はその後、サッカーチーム:ガンバ大阪の社長を務められた。
 当時は毎年のように社員旅行が有り、新入社員当時は旅行にギターを持ち歩いていたことから余興で部課長の歌に付き合わされた。また、女性とも弾き語りで歌った。此の事がきっかけでコーラス部への誘いもあったようだ。
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部長の歌に付き合わされて

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ギター抱えて二人で歌を・・

 当時の研究所では部長職以上が個室を持ち、セクレタリーも居た。総務部長は唯一部長職で社用車を使っていた。本来は事業部長以上に許されていたが技術本部では特別だった。
 ある時、ピンクのカラーシャツで朝会に臨むと総務部長から「白のワイシャツに着替えて来い」と皆の前で言われた。古い考えと思った。しかし、何日後かには自ら青いカラーシャツを着ていた。金縁眼鏡も幸之助氏が黒縁なのに君は何を考えているとダメを言われた。これも後に自らフチなし眼鏡をかけていた。ある時パイプたばこを吸うとまた注意された。だがまた部長がパイプに手を伸ばした。人生の教訓についていろいろ教えられた部長だった。退職後も中研OB会で十数年間お世話になった。
 夏には納涼祭が行われ、徳島から阿波踊り連を招いた。
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納涼祭での一コマ(前段女性右横の浴衣姿が筆者)

 上の写真の右側から指導してくれている計算機室の上司が阿波踊り姿で乱入。楽しい中研生活だった。 中研コーラス部では初めて大阪府の合唱祭で舞台に立った。この時、銅賞を頂いた。コーラス部としては初めての経験だった様で、筆者の入部も役立ったと思った。
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トップテナーを担当し男性の左端が筆者

 コンダクターは大阪大学グリークラブで指揮を行っていた中央研究所の半導体研究者。ピアニストでもあり、その後コーラス部のピアノ伴奏者と結婚された。
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コーラス部メンバーと京都で

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京都植物園にて 左端が筆者

 中研コーラス部はその後、オール松下の混声合唱団として全日本音楽コンクールで金賞を受賞するまでに発展した。筆者が松下通信に転勤後の事である。
 中研にはスキー同好会が有り、シーズン前に入会した。初滑りは人工雪の六甲山スキー場だった。年が明けて中研スキーツアーが琵琶湖バレイスキー場で開催され、筆者は指導員として上級者を担当した。GWには信州栂池の春スキーを楽しんだ。先輩が栂池に山小屋を所有しており、自炊生活を送った。
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栂池高原スキー場の中腹にて(右端が筆者)

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前列左から二番目が筆者

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右のエプロン姿が筆者

 Privateではいつ頃からか朝会前に2階の特別食堂でmorningコーヒーをご馳走になるのが日課となった。相手は京都育ちの同志社大 英文科卒の才女だった。下の文章はシステムエンジニアを目指す筆者に思いを込めて書いてくれた。
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 入社三年目頃、製造会社に入社したのに社内向け業務ばかりで社会への寄与をすることが無かったことに気づかされた。ある時、松下通信所属の部長研修者の中に「愛知県警察本部 交通管制システム開発」をテーマにした書類に目が留まった。当時としてはFACOM230/35(2台)とMACC-7(数台)で構成する大規模なシステムだった。信号を制御する交差点数も数百におよぶ。これがきっかけとなり、その年の10月に松下通信工業(横浜)への転勤となった。辞令上は出向手当の無い出向だったが。
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転勤の朝の中研前での記念写真(電子計算機室の方々と)

 この時、計算機室で間もなく課長職になる方(名古屋大 数学科卒:前列で女性に挟まれた長身の男性、その右の男性が筆者)と二人の転勤だった。下の色紙は中研を去る時に渡してくれた色紙の一部。仕事に部活に楽しく新しい事にチャレンジ出来た大阪勤務の二年半であった。
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総務部からの贈り物

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中研同期入社のサークルから

 第6話では松下通信での再出発を述べる。