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《人生の回想》

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第4話 社会人としての第一歩
野﨑(旧姓:椿)敬策(S46e)
 昭和46年(1971年)3月21日 松下電器の入社式に臨んだ。筆者はこの時まだ17歳だった。京阪電車の枚方公園で下車し、徒歩で枚方の体育館に向かった。入社式会場に到着すると高卒でおよそ関西以西の2,300名の席が整然と並んでいた。関東地区では東京社員研修所におよそ高卒150名が集まった事を後で知る。高専・大卒の入社式は4月1日でおよそ全国から約2,000名が集合した。この年は好景気の余波で松下では最大の約4,450人が入社した。当時の全社員数は約6万7千名ほどだった。また前年が松下創業50周年だった。
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 上記の写真は入社二年目の経営方針発表会を枚方体育館で実施した時であるが、入社式もこの会場であった。ちなみにこの発表会では7,300名ほどが全国から集まった。各事業部の課長職以上である。筆者もこの場にいた。
 入社式では松下幸之助会長・松下社長のお話が有った。幸之助氏の「道を拓く」の言葉に感銘を受けた。終了後、社員寮毎にバスで移動した。  筆者は松下で最初に作られた松清寮(通称:教育寮)だった。寮生は松下工学院(中学卒業後松下の教育機関に進んだ人達)出身者が殆どだった。指導員と称する先輩が数名入寮していて、様々な面でご指導頂いた。部屋は4人部屋で二段ベッド。岡山・広島・愛媛の工学院出身者と同部屋だった。
 入社後、一ヶ月間は枚方社員研修所で導入教育を受けた。松下電器の経営理念を徹底的に叩き込まれた。毎朝8時に朝会から始まる。綱領・信条・七精神の唱和をした後、各自持ち回りで所感を述べた。この朝会は筆者が松下を早期退職するまで続いた。
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松下電器の経営理念

 導入教育の最終日に仮配属の辞令が渡された。ここでは製造実習を約三か月間実施する。筆者は録音機事業部だった。カセットテープレコーダーを製造するラインで様々な工程を体験した。流れ作業の為、時々部品を付け忘れては女性の指導員に怒られた。業務終了後にはいつしか守口駅付近で女性指導員や製造ラインの女性陣に何度となく誘われ食事をした。ただし、寮の規則は厳しく門限が夜の八時だった。
 二カ月が経過した頃、ラインは不向きと言われ技術部に異動となった。先輩の高卒は殆どが製造部門に配属されていた。仮配属先で3か月が終了し、本配属の面談が事業部長・人事部長とあった。言われたのはこの事業部の技術部に残って頂きたいとの事だった。筆者の思いは松下の中枢:中央研究所を希望する旨話した。この時の事業部長:谷井氏がその後、ビデオ事業で大きな功績を残し社長になるとは当時は想像もしなかった。三カ月の製造実習が終了し再び枚方体育館に集合し、正式な配属辞令を受け取った。 辞令には「技術本部総務部人事課」と記されていた。通常、文系の行く部門である。体育館から配属先毎のバスに乗り、筆者は門真の本社の隣の中央研究所に向かった。この時76名が乗車した。中央研究所に到着後、技術本部総務部に入った。総務部には5名が配属され人事課、経理課、総務課、購買課そして筆者だった。別室に呼ばれ真の配属先を言われた。「技術本部技術能力開発室」だった。技術本部長直轄の部署で組織図には載っていない。この部署は全松下の技術社員を経歴管理し、新製品開発などに対応する人材の発掘や部長職以上の教育を実施し、将来の事業部長を育成する事を目的とする部署だった。室員は10名程で大卒も一名配属された。何故筆者がこの様な部署に配属されたかは今もって疑問である。中央研究所には基礎研究をする「中央研究所」「製品開発研究所」「照明研究所」の三つの研究所と「試作部」、「電子計算機室」があり、製品開発研究所に数名、残りは試作部に同期入社の71名は配属された。他に無線研究所や音響研究所などが門真地区にあった。 中央研究所の中央部の一階がofficeだった。二階には中尾副社長を初め技術系役員がそれぞれ個室を持っていた。特別食堂もここにあった。三階には講堂、ラウンジがあり四階は社員食堂だった。
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写真の左下が本社      写真の右上が中央研究所

写真の左下が本社 写真の右上が中央研究所

 正式配属後、3カ月の販売実習があった。松下には全国各地にナショナルショップが点在し、新入社員はそのShop店で販売実習を行った。松下は「モノを作る前に人を創る」のポリシーを持っていた。入社後7カ月も新入社員教育をするとは凄い事と思った。筆者は何処に行くのか楽しみにしていたが、販売実習には行かなくていいからIBMのコンピューター教育を受けろと言われた。その後も唯一販売実習免除となったのは筆者だけだった。
 寮に帰ると販売実習から帰った人たちは皆楽しそうな話を聞かせてくれた。ただ、夏の暑い最中にアンテナ取り付けやエアコン設置は結構大変だったようだ。また、中にはShop店の娘さんと恋仲になり結婚する者もいたと聞く。
 技術本部では技術系社員(研究所配属の大卒が主)のコンピューター教育があった。レジメは何と簡単な電子計算機の歴史とFORTRAN実習だった。筆者は高校時代に学んだ内容で教育後のアンケートにはもっと内容の有るコンピューター教育をやるべきと記した。此の事がきっかけとなり次年度の教育用教材を作るよう命じられた。
 筆者の指導員は京大出の二人だった。一人は後に松下の常務、松下通信の社長を務めた。この人の指導で教材創りを行った。もう一人は技術社員の経歴管理などを行うコンピュータシステムや次の機種:IBM370/VM導入等を担当し、日常業務の上司の一人だった。入社当時はIBM360/40 DOS、IBM1130の2台が中研に導入されていた。
 専門知識の体系化の改定が最初の仕事だった。材料の物性物理から始まりシステム技術、生産技術に至るまで幅広い分野の専門知識を体系化した。この作業には社内の各専門家に聞き入り調査しながらドキュメント化し、最後に専門家委員会で決定してもらうプロセスだった。仕事の相手は部課長や研究所長で最初は面食らったものである。しかし、この事が将来の自身にどれだけ有意義だったかは言うまでもない。
 ある時、役員からお嫁さん探しを依頼された。当時、技術社員マスターファイルには既婚・未婚の区分が入っていなかった。上司と相談し断るわけにもいかず、本社人事部が所有する社員管理マスターファイルを借用し、技術社員経歴管理ファイルに項目を追加した。指定された条件に該当するお嫁さん候補を検索し、リストを渡したがその後の結果は聞いていない。蛇足だが、社員マスターの最初には何と松下幸之助氏が入っていた。社員ナンバーは“0”だった。ちなみに筆者は“3462018”だった。ナンバーの頭が6だと中途採用という事もこの時知った。ただしこの事は門外不出とした。
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松下幸之助会長

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中尾哲二郎副社長

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城阪俊吉常務技術本部長

 幸之助氏は時々中研の一階ロビーでメディアのインタビューに応じていた。中尾副社長とは時々顔を合わすことがあり挨拶した。城阪常務は配属後、京都東山の料亭で歓迎会を開いてくれた。城阪氏はその後、松下の副社長を務められた。
 筆者にとって生涯忘れる事のできない方となった。(上の写真は入社当時の役職名)

 第5話は中研時代の活動を回想する。