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《人生の回想》

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第3話 人生の岐路となった高校生活
野﨑(旧姓:椿)敬策(S46e)
 昭和43年(1968年)4月 待望の長岡工業高等学校に入学した。中学時代は坊主頭であったがやっと髪を伸ばすことが出来た。入学式には染色・機械・工業化学・電気そして電子の9クラスおよそ360名が木造校舎の体育館に勢揃いした。
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校舎と中庭の風景(卒業アルバムより)

 電子工学科で入学試験を受けたが、入学時は電子科に改名されていた。電子科は歴史も浅く筆者は第10期生の入学であった。クラスメートは県下の上越・中越から通学していた。中には筆者と同じように親元を離れ下宿生活の者もいた。筆者は母親の実家に居候していた。従兄弟が三人で長男は長岡工業出身で後に知ったが機械科で生徒会長を務めたとの事である。従って、男が一人増え一家5人暮らしだった。従兄弟の二男は長岡高校から横浜国大に進学し家を離れていた。
 担任の平山先生は巻工業から転任してきた若手の先生だった。卒業までの3年間ご指導頂いたが、長岡工業では最後に教頭の職に就き、燕工業の校長を最後に退官した。今も親交させて頂いている。
 工業は進学校ではなかった為、運動部を選択しスキー部があったので迷わず入部した。入部時、先輩たちは下田村の事は全く知らず、スキー経験を最初に聞かれた。筆者はOlympic Alpine Skiで初の三冠王を成し遂げたAustria トニーザイラーに憧れ、その影響で中学から競技スキーを本格的に始めた事などを説明した。なおその後、Franceのキリーも三冠王を達成し、フランス・スキーテクニックの本を購入し参考とした。大先輩の近藤氏の投稿記でも紹介されている事を記しておく。
 スキーシーズン前の練習は体力作りがメインでとてもきつかった。特に長生橋から蔵王橋までの往復ランニングは長距離が苦手だった筆者にとっては最大の難敵だった。しかし、その後徐々に長距離も克服し瞬発力と持久力を兼ね備える競技スキーには欠かせないトレーニングだった。初シーズンのスキー練習は悠久山スキー場から始まった。小さくて急斜面も無くとても競技スキーをやるにはそぐわなかったが、授業が終了すると急いで悠久山に向かった。
 本格的な練習は冬休み期間中の石打丸山スキー場での合宿だった。早朝から板を担いでスキー場の天辺まで行き、滑降ダウンヒルの練習。朝食後は一般客の滑らない斜面をコース造りし、ポールを立て回転スラロームを中心に練習した。部の中では合宿中の実績を通じゼッケンNo.1を頂いた。シーズン前の練習では想定外だったのだが。
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石打丸山スキー場 練習ゲレンデでの勢揃い

 正月中は卒業した先輩も駆けつけ指導をして頂いた。大会には中越大会、国体予選、長岡市民大会に参加した。中越大会と国体予選は筆者を含め4名(部長3年、2年2名、1年筆者)が出場し、恒例の壮行会もやって頂いた。
 浦佐スキー場が中越大会の会場で、回転競技と大回転リーゼンスラロームを滑り成績は憶えていないが県大会には誰も出場出来なかった。残念だが、練習の質が六日町等と大きく違っていたと思われる。国体予選は妙高高原スキー場でalpine3競技が開催された。
 一般青年を含め回転は一回目50位以内が二回目に進めた。筆者は二回目に進めたがスキーが外れ途中棄権だった。アクシデントが無ければ20位程度になれたのではと悔しい思いをした。滑降は30位程度だったと記憶している。滑降用の板が欲しいと思った瞬間だった。大回転の記憶は無いのでもしかしたら2競技だったのかもと思った。
 シーズンの最後は八方台からのスキー滑降だった。ゲレンデというにはお粗末でただ滑り降りたという印象だった。
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滑降競技:緩斜面を滑る筆者

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回転競技:市民大会の筆者

 最初のシーズンが終わり、2年の夏休みに埼玉川越の実家に帰省した時、両親からスキー機材(競技ごとの専用Ski・ワックス・服装等)や合宿費等で経済的に無理がある事から支援できないと宣告された。後一年続けたらスキーの有名大学からの声掛けも夢ではないと内心思っていたが、了承せざるを得なかった。スキー人生に封印した最初の人生の岐路となった。
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スキー部

 二年の前期までしか所属しなかったスキー部であったが、卒業アルバムの写真撮影で誘いを受けた。正直思ってもいなかった事態に最初の「長工の絆」の深さと温かみを知った。同窓会でお世話になっている竹津氏も写っていることを記す。
 夏休み明けに退部届を出し、クラスメートで親友の誘いもあり文化部の放送局と郵便友の会に入部した。
 学業の方は数学や物理、政治経済等は好きだったが、恥ずかしい事に電気に興味なく専門教科は好きになれなかった。実習も同じ班のメンバーに助けて頂いた。卒業研究も何をテーマにしたか記憶にない。ただ、3年生になって県下で最初に電子計算機(ミニコンピューター)が導入された。日立製のHITAC-10だった。実習でプログラミングし数式計算等をこなした。言語はFORTRANで紙テープ入力だった。個人的に東大教授の森下繁一氏が執筆した「FORTRAN入門」を購入し参考とした。それまで手回し計算機を実習で使ったが、ミニコンは雲泥の差で面白さを知るきっかけとなった。
 部活の放送局では3年になってお昼休みにDJを始めた。部員日替わりで担当し、筆者は「シュガー・シュガー」をopeningテーマ曲とした。正直、誰が昼休みに聴いてくれていたかは定かでないが自己満足だったのだろうか。ちなみに電気科の放送部長は「マルタ島の砂」を使っていた。三条東高校(女子高)のアナウンス部と交流が有った。思い出に残るのは長工マンドリンクラブが長岡厚生会館でConcertを開催した際、演出を筆者が担当し、この時の曲紹介やナレーションに女子高のアナウンス部長にやって頂いた。彼女とは高校卒業まで文通などで交友があった。また、松下電器から松下通信工業に転勤し横浜に来た時も、高校卒業以来、初めて東京で出会った。彼女からの誘いだったと記憶する。なお三条東高校は筆者の姉が卒業した高校でもあった。卒業後、日立小平工場に就職していた。
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三条東高校アナウンス部との交流記念写真:左端が筆者

 郵便友の会では文通が主とした活動だった。筆者の文通相手は愛知県の岡崎高等学校の女子学生だった。どういう経緯で文通相手を見つけたかは定かでない。ソフトボール部で日焼けした活発な彼女だった。長岡では大手高校、商業高校との交流が有った。何故か長岡高校の仲間は居なかった。八方台の研修センターで議論を交わした。どんなテーマで話し合ったかは記憶にないが、おそらく恋愛と自由、進路と将来などではなかったか。
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郵便友の会

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放送部

 郵便友の会を通じ知り合った彼女たちから誘われ、大手高校の文化祭にはモーリスのフォークギターを抱えて皆と歌ったことを鮮明に覚えている。
 忘れてならないのが恒例の大運動会だ。稲刈りの終わった近所の農家から竹や木材を借り、マスコット造りに取り掛かる。各科対抗の運動会でマスコットは最大の創作芸術だった。我が電子科は2年の時は「かぐや姫」、3年の時は「クレオパトラ」を創作した。記憶では2年連続でマスコット制作の優勝を果たした。
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2年の時の「かぐや姫

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3年の時の「クレオパトラ」

 思い出のひとつに関西修学旅行が有る。初めて新幹線に乗車した。京都、奈良、伊勢を廻った。クラスメート全員で寝食を共にした唯一の時間だった。
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京都の宿での食事風景 右側奥が筆者

 3年に入ると進路指導があった。クラスメートの殆どが就職であったが数名は大学への進学を目指していた。夏休み前後で入社試験を受け後期が始まる頃には就職も決まっている人が多かった。筆者は進学の希望が内心ではあり悩んだ挙句、進路指導の先生に勧められソニーの厚木工場を受験した。しかし、初めての受験失敗だった。面談で政治活動をしていた先生の話が何故か出た。おかしいと思いながらも受け答えしていた。この辺が落ちた原因と後で知った。後期はまともな授業は無くなっていた。11月末に進学を諦め松下電器の第三次求人に臨んだ。結果は合格であった。内示後の面談で松下通信工業を進められたが、どうせなら本家本元の大阪門真からスタートしたい旨伝え、願いは叶った。その後、毎月本社人事部からPHPが送られてきた。入社前に松下幸之助の考え・教えを通学の最中にPHPから学んだ。大きな人生の岐路となった。
 卒業前に新潟県青年スキー祭典に誘われた。場所は守門村の須原スキー場だった。大回転競技が有りエントリーし見事優勝を果たした。
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大回転でのギャップをjump

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大親友の山崎君と

 同行した仲間たちから祝福を受け、高校生活に終止符を打った。

 第4話は松下電器入社の三年間を回想する。