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《人生の回想》

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第2話 学問の楽しさを知る
野﨑(旧姓:椿)敬策(S46e)
 昭和40年(1965年)4月 住み慣れた吉ケ平から八木前の森町中学校に入学した。初めて親元を離れ寄宿舎生活の始まりである。既に中学3年の姉が入居していた。此の宿舎は冬場に入ると他の部落(遅場・笠堀・大谷)からも入居し生徒数も多くなった。また、寄宿舎ももう一つ増えた。
 森町中学は五十嵐川の流域で名勝:八木ケ鼻の麓に在った。
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左下の建物は寄宿舎、奥に中学校の校舎

左下の建物は寄宿舎
奥に中学校の校舎

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名勝:八木ケ鼻と五十嵐川

 一年生は153名だったと記憶している。4クラス編成でA~D組から成る。筆者はD組であった。担任は英語教師で三条から転任してきたまだ若手の先生だった。 初めてのホームルームで級長の選出が有った。多選自薦といっても初めて出会う仲間たち、お互い見回しあうのみ。思い切って手を挙げた。他に誰も挙手せず即級長に選ばれた。3年間を通じD組で担任も卒業まで一緒となった。今でも親交させて頂いている。
 三学期制で学期の中間、期末には試験が有った。試験後、全教科合計の学年ベストテンが張り出された。初めての経験である。小学時代何もしなかった筆者が上位に入っていた。3か年間でトップには一度もなれなかった。何故かトップはある女性であった。二位には時々なったと記憶する。学校を知り学問に目覚めた3年間である。
 冬には雪国ならではの校内スキー大会があった。クラス対抗である。ここでの思い出は最終競技のスキーリレーだった。此のリレーで1年にもかかわらず我がD組が優勝した。アンカーは筆者で前走までトップではなかったが、筆者にバトンタッチされスケーティングSkiで何人かの上級生を抜きトップに立ちそのままゴールインとなった。我がクラスにはトップテンに入った人数が多く、スポーツにも長けていた。そんなおかげでスキーリレーも優勝出来た。此の事がきっかけで2年になる時、次期生徒会長から総務役員へのお誘いを受けた。2年になるとクラス替えが有り、トップテンのメンバーが各クラスに分散されていった。
 2年の途中で担任から二人が呼ばれ(一人は平塚に転校し、後に松竹歌劇団に入った女性)、一級上の学習教材を渡され別教室で指導教育された。
 3年になる前に次期生徒会長選挙が有った。3人の立候補があったが筆者が見事当選した。会長選挙を戦った女性には副会長になって頂いた。
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生徒会役員 中央が筆者

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校内陸上大会入場行進 左壇上が筆者

 部活に何故かスキークラブが無かった。お金が掛かり過ぎ一部の生徒しか競技には参加できなかった為との事。中学三年の時の県スキー大会には副会長の女性から合板Skiを借用し、何とか回転スラロームで二位入賞を果たした。ちなみに部活は科学クラブだった。
 下田村には森中の他に長沢中学校と鹿峠中学校があった。三校対抗の陸上競技大会が有り筆者は三種競技(100m・砲丸投げ・走高跳)の選手だった。入賞したと思うが何位かの記憶はない。応援にはブラスバンドが花を添えたが、部員不足で筆者はトロンボーンを奏した。定番の「若い力」や「アメリカンパトロール」等を奏でた。
 卒業式では功績賞(生徒会長)と優秀賞(数学・科学・音楽・体育)を頂いた。思わぬ賞に感動した事を憶えている。その頃、卒業前に我が家は埼玉に引っ越していた。
 高校への進学は普通高校から大学への思いがあったが、両親からの早く就職しなさいとの希望で工業高校を進められた。工業は学区制が無く、通学を考慮し長岡工業高校を選択した。学科は何でも良かったのだが当時競争率が一番高い電子科を受験し、長工との出会いを果たした。通学は中之島村灰島でお袋の実家で親父の妹の嫁ぎ先からである。
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クラス会

 初めてのクラス会を開催したのは高校3年の時であった。高校に入って眼鏡のお世話になった。寄宿舎では勉強がやりづらく暗がりで教科書を読んだのが近視の要因となった。
 一年の時同じクラスだった高井盛夫君がその後、新潟県副知事になった事を記して筆を置く。

 第3話は長工生活を回想する。