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《人生の回想》
第1話 故郷への想い
野﨑(旧姓:椿)敬策(S46e)
「新潟県南蒲原郡下田村大字吉ケ平」が生誕の故郷である。昭和45年に集団離村し現在は住む人はいない。歴史を紐解くと元禄年間の1688年に吉ケ平の最初の記録が記されている。昭和元年(1926年)~昭和10年ベントナイトや銅の採掘が始まり村は活気を浴びたようである。小生の生まれは昭和28年(1953年)3月である。小学6年までここ吉ケ平で両親と暮らした。中学は4里(16Km程)離れた八木前の森町中学校のため通う事が出来なく、通年を通して寄宿舎での中学生活であった。
昭和29年撮影の吉ケ平
昭和29年我が家の風景
我が家は上の写真の棚田の右上に見える茅葺屋根の曲屋である。雪が積もるとこの棚田は小生のスキーゲレンデとなった。
下の写真の上段高台には昭和45年集団離村時の我が家が写っている。我が家は単独で小生が中学卒業前に埼玉県所沢に引っ越していた。その為、家屋の屋根の一部が破損しているのが見える。
昭和45年集団離村時の我が家
守門岳の麓で一年の半分は雪に覆われていた。昭和38年2月には9m20㎝の積雪を記録している。ここは福島県南会津への八十里越の交易の地でもあった。明治中期には40戸ほどの集落で離村時は19戸だったそうである。筆者はこの辺の記憶はあまり定かでない。我が家単独で小川を利用し水力発電を行っていたとの事である。母屋に蔵、家畜小屋、薪小屋等が敷地内に点在して建っていた。
物心ついたころから竹のスキーで滑っていたようである。小学6年の時は単板スキーにゴム製スキー靴で滑ったのを記憶している。この頃、国体に出た人がスキーの指導をしてくれた。競技スキーをやるきっかけとなった。家は稲作や炭焼き、林業、家畜(牛・豚)で生計を立てていた。
小学校は早水小学校の吉ケ平分校で卒業時20名ほどの児童数だったと記憶している。先生は二人で一時我が家に寝泊まりしていた・・やがて二人は結婚して我が家を出て行った。筆者の同級生は二人で学年の中で一番少ない数だった。この頃は勉強した記憶が無く中学に行ってから授業を知った。
第2話は中学から高校生活を回想する。